こんにちは!
今日は、横浜三名士について紹介したいと思います!
横浜三名士に選ばれたのは、
吉田勘兵衛(よしだかんべえ)
高島嘉右衛門(たかしまかえもん)
苅部清兵衛(かるべせいべえ)
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
吉田勘兵衛
吉田勘兵衛とは、江戸時代前期の材木商。
諱は良信。
吉田新田を開墾したことで知られ、高島嘉右衛門、苅部清兵衛らと共に横浜三名士と言われる。
丹波国の戦国大名・波多野氏の一族から起こったと見られる能勢西田氏の出身。
高島嘉右衛門とは、幕末から明治にかけて活躍した横浜の実業家、易学家である。
江戸三十間堀生まれで、幼名は清三郎。
後に嘉兵衛、嘉右衛門と改名した。
号は呑象。
明治初期に横浜港の埋め立て事業を手掛けたことで横浜の発展に寄与しており、「横浜の父」或いは吉田勘兵衛、苅部清兵衛らと共に横浜三名士とも言われる。
その業績は高島町という地名にも残っている。
「高島易断」という書を著す。
苅部清兵衛
苅部清兵衛とは、東海道五十三次の4番目の宿場・保土ヶ谷宿の本陣・名主・問屋の三役を務めた苅部家(軽部家)歴代当主が襲名した名跡である。
10代当主・苅部清兵衛悦甫は初代横浜総年寄(今の中区本町、南仲通、北仲通、弁天通、海岸通)を任命され町の行政を担い、安政6年(1859年)の横浜港開港、横浜道の開発、今井川(帷子川の支流)の改修等に大きな役割を果たし、貿易歩合金制度(貿易商人から売上金の一部を徴収)を導入して横浜町の財政基盤を確立、吉田勘兵衛、高島嘉右衛門と共に横浜三名士と言われた。
如何でしたか?
吉田勘兵衛は吉田新田、高島嘉右衛門は高島町の由来になっているのですね。
高島町駅や新高島駅は何回か降りたことがあるので、馴染みがあります。
現在の横浜に至るまでの発展に大きく貢献された3人のようですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!