こんにちは!
今日は、海赤雨三将について紹介したいと思います!
海赤雨三将に選ばれたのは、
雨森清貞(あめのもりきよさだ)
海北綱親(かいほうつなちか)
赤尾清綱(あかおきよつな)
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
雨森清貞
浅井氏の家臣。
通称である弥兵衛尉の名で知られる。
なお、羽柴秀吉に仕えた雨森清兵衛は、同一人物とも言われるが、不明である。
また、この清貞の名も確定的なものではなく、本当に「清貞」と名乗っていたかは不明である。
海北綱親・赤尾清綱・雨森清貞の三将の頭文字を取って「海赤雨の三将」と総称された。
海北綱親
海北綱親とは、戦国時代の武将。
浅井氏の家臣。
綱親の四男が後に近江国の瓜生の地に帰農したことから、この地が綱親の本拠地だったと推定される。
赤尾清綱や雨森清貞と共に「浅井三将」と称され、浅井家3代に渡って仕えた重臣で軍奉行を務めた。
綱親は智勇兼備の武将で、羽柴秀吉にもその実力を恐れられた。
赤尾清綱
赤尾清綱とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
浅井氏の家臣。
浅井三将の1人。
赤尾氏は近江の国人で、元々は京極氏の傘下であったが、後に海北氏や雨森氏と並ぶ「浅井三将」に数えられた。
清綱は近江浅井氏初代・浅井亮政の頃から浅井氏に仕えた。
当主からの信頼がとりわけ厚く、小谷城内の防衛の要所に赤尾曲輪と呼ばれる居館を持ち、そこに在番していた。
通常、家臣は城下に武家屋敷を持ち、そこを居館とするものだが、城内に居館を持つのを許されており、その信頼の厚さが窺われる。
如何でしたか?
浅井氏と言えば浅井長政が有名ですが、その前から仕えていた3人のようですね。
海北綱親は、画家で有名な海北友松の父親のようですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!