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日本三大謀反って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、日本三大謀反について紹介したいと思います!

 

日本三大謀反に選ばれたのは、

源頼政

足利尊氏

明智光秀

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

源頼政

 

 

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源頼政とは、平安時代後期の武将。

仲政の子。

蔵人を経て久寿2年(1155年)、兵庫頭となる。

保元の乱には後白河天皇方として源義朝と共に戦ったが、平治の乱には義朝に従わず、平清盛と共に行動、仁安1年(1166年)、昇殿を許された。

治承2年(1178年)、清盛の推挙により、清和源氏としては異例の従三位に叙せられた。

翌年、出家し、源三位入道と言われた。

子の仲綱が平宗盛に辱められたことから、頼政平氏に対する不満が爆発し、同4年、後白河法皇の皇子以仁王に薦めて平氏討滅の令旨を得、諸国に触れたが、事が漏れ、宇治平等院の戦いで死んだ。

家集『源三位頼政卿集』がある。

 

 

 

 

 

足利尊氏

 

 

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足利尊氏とは、室町幕府初代将軍(在職 1338~1358年)。

貞氏の子。

母は上杉清子。

初名は高氏。

元弘の乱に際し、元弘3年=正慶2年(1333年)5月、六波羅探題を攻め滅ぼし、建武政府が成立すると、高氏は従三位、武蔵守に叙任され、天皇の諱の1字を賜って尊氏と改名した。

しかし、建武2年(1335年)、建武政府に背き、建武3年(1336年)、光明天皇を擁立して幕府を創設。

後醍醐天皇は吉野に逃れ、南北朝の動乱が始まった。

延元3年=暦応1年(1338年)、征夷大将軍、以後累進して正二位権大納言に至る。

当初は弟直義と二元政治を採ったが、正平7年=観応3年(1352年)、直義を殺し、将軍への権力集中に成功した。

法号等持院仁山妙義。

 

 

 

 

 

明智光秀

 

 

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明智光秀とは、安土桃山時代の武将。

通称十兵衛。

天正3年(1575年)、九州の旧族惟任の称号を与えられ日向守。

父は光綱。

その前身は判然としないが、美濃の土岐氏の支流と言われ、また美濃明智荘に居住し明智と称したと言う。

初め斎藤氏に仕え、流浪の後、永禄9年(1566年)、織田信長に仕えた。

翌年、滝川一益に従い北国征伐に参加し、信長上洛に際しては村井貞勝らと共に京都の政務にあたり、信長の信任を受けた。

元亀2年(1571年)、若狭平定の軍功により、近江坂本城主となり、滋賀郡を領した。

後に朝倉氏が滅亡し、越前が平定されると、柴田勝家らと同国の経営を行い、天正5年には信長の命で丹波に進撃して、丹波経略に尽力した。

その後も荒木村重松永久秀の反乱や紀伊雑賀の一向一揆、また武田勝頼征伐等の諸戦に従軍。

同10年、信長より徳川家康の功を労う為の接待役を命じられたが、その準備半ばで、更に羽柴秀吉への援軍を命じられ、憤激して帰国し、丹波亀山城から兵を整え上洛し、6月2日、信長を本能寺で討つに至った。

しかし、その後の収拾策は遅滞し、光秀謀反に中国路より転進して上洛する羽柴秀吉に対して、味方と頼んだ蒲生賢秀細川忠興筒井順慶らはいずれも参陣せず、京畿地方の人心の収攬も成功しないまま、13日、山崎の戦いで秀吉に大敗、近江坂本に帰る途中、小栗栖で殺害された。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

源頼政は少しマイナーかもしれませんが、今年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場していましたね。

近年、室町時代をテーマにした大河ドラマが少ないので、そろそろ観てみたいところです。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!