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利休門三人衆って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、利休門三人衆について紹介したいと思います!

利休門三人衆とは、利休門下の武将のなかで、特に優れていたと言われる3人の武将です。

 

利休門三人衆に選ばれたのは、

蒲生氏郷(がもううじさと)

芝山監物(しばやまけんもつ)

細川忠興(ほそかわただおき)

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

蒲生氏郷

 

 

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蒲生氏郷とは、安土桃山時代の武将。

六角氏の重臣近江国蒲生郡甘野城主蒲生賢秀の子。

幼名鶴千代、忠三郎賦秀。

洗礼名レオン。

蒲生氏は鎮守府将軍藤原秀郷の後裔。

永禄11年(1568年)、織田信長に降った父賢秀の人質として岐阜に赴き同地で元服

信長は自身の弾正忠の官名の1字を与えて忠三郎賦秀と名付けた。

永禄12年、信長に従い伊勢に戦い、同年の冬、信長の娘を娶り日野に帰城。

以後、信長に従軍し、朝倉攻め、小谷城攻め、長島の合戦、長篠の戦い等に参加。

本能寺の変の時には、日野に在城していて明智光秀の勧誘を退けて安土から信長の家族を引き取り父と共に籠城。

秀吉はこれを賞して光秀の欠所地5000石を与えた。

天正11年(1583年)、柴田勝家と戦い、秀吉はこれを喜んで氏郷の妹を夫人に迎えた。

また、滝川一益の拠る伊勢国を攻め、その功により亀山城を与えられ、小牧・長久手の戦にも参加し、南伊勢に12万石を充て行われ、松ヶ島城に移る。

天正13年、大坂で洗礼を受けてレオンと称した。

天正15年、九州攻めに参陣し、羽柴姓を与えられ、天正16年、正四位左近衛権少将となり、松坂城に移る。

天正18年、小田原攻めに参加し、8月、会津を中心とした陸奥、越後12郡42万石に転封し、黒川城に移る。

その後、大崎葛西一揆九戸政実の乱鎮圧の為に出陣、その功により陸奥、出羽7郡18万5000石を加増され、総高91万9000石余りとなり、大大名となる。

文禄1年、上洛し、肥前名護屋に赴いた。

同年、若松城本丸が完成し、かつ城下町建設にも着手。

墓は京都大徳寺

 

 

 

 

 

芝山監物

 

 

芝山監物とは、安土桃山時代の武将、利休七哲の1人。

通称源内、名乗り宗綱。

初め織田信長に仕え、天正6年(1578年)、荒木村重討伐に従軍。

後に豊臣秀吉に従い、御咄衆として1万石を給せられたと言う。

天正12年に行われた大坂城の茶会にも参加。

天正16年の後陽成天皇聚楽第行幸には、秀吉の前駆を務めた。

天正9年には茶人として知られた堺の天王寺屋津田宗及や山上宗二らを招いた茶会を行っているから、この頃には茶人としても知られていたようだ。

利休から贈られた長次郎作の黒楽茶碗「雁取」を所持しており、芝山型手水鉢、芝山緞子等にも名を残している。

 

 

 

 

 

細川忠興

 

 

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細川忠興とは、江戸前期の豊前国(福岡県)小倉藩主。

藤孝(幽斎)の長男。

母は沼田光兼の娘。

足利義輝の命により細川輝経の養子となる。

幼名熊千代、後に与一郎。

天正6年(1578年)、織田信長の嫡子信忠から1字を与えられ忠興と名乗る。

天正6年、明智光秀の娘玉子(細川ガラシア)を妻に迎え、天正8年、丹後(京都府)一国を与えられて宮津を居城とした。

天正10年、本能寺の変に際しては、父藤孝と共に剃髪して弔意を示し、ガラシアを離別し、味土野に幽閉した。

豊臣秀吉政権のもとで丹後支配の実を挙げ、許されて再びガラシアを迎える。

天正13年、従四位下侍従に任ぜられ、羽柴姓を許された。

天正17年9月、秀吉は改めて幽斎と忠興に丹後一国11万700石を安堵した。

文禄2年(1593年)、朝鮮に出陣、慶長1年(1596年)、越中守となる。

文禄3年、秀吉の死後は徳川家康に接近、文禄5年、関ヶ原の戦いの際には忠興は家康に従って東下中であったが、父幽斎は丹後田辺城に籠城(勅命により開城)、夫人ガラシアは人質として大坂城に入ることを拒否して自刃した。

家康は細川氏の忠節に対し、関ヶ原の戦いの前に豊後(大分県)杵築6万石を加増したが、戦後功により豊前一国、豊後2郡39万石を与え、中津城に配した。

忠興は間もなく小倉城を築いて本城とし藩政を確立した。

元和6年(1620年)閏12月、隠居を許され、3男忠利に家督を譲り、中津に移って三斎宗立と号した。

嫡男忠隆は夫人(前田利家の娘)が姑ガラシアの悲劇の際に姑の許から去ったことで廃嫡となり、次男興秋は弟忠利の代わりに証人(人質)として下る途中出奔して大坂城に入った為、幼少から証人として江戸に赴き、秀忠の身近く仕えた3男忠利に家督を譲ったのである。

寛永9年(1632年)12月、忠利が肥後熊本に転封すると、三斎は4男立孝、6男興孝を伴って八代城に入り隠居領3万石を領した。

三斎は天草・島原の乱(1637年)に際し、本藩とは別に八代領からの軍を立孝に率いさせて出陣させる等、八代領の支領化を図ったが、立孝は父に先立って没し、三斎没後、立孝の子行孝は宇土支藩主になった。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

蒲生氏郷細川忠興は知っていましたが、芝山監物は初めて知りました。

武将でありながら、茶人としても活躍しており、正に文武両道ですね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!