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京都の五花街って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、京都の五花街について紹介したいと思います!

 

京都の五花街に選ばれたのは、

先斗町

祇園

祇園甲部

宮川町

上七軒

の5つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

先斗町

 

 

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先斗町とは、京都市中京区に位置し、鴨川と木屋町通の間にある花街及び歓楽街。

「町」と付くが地名としての先斗町は無い。

先斗町通については「先斗町通四条上る柏屋町」等、公文書(四条通地区地区計画:京都市都市計画局)にも使用されている。

また、鴨川寄りに面したお茶屋・料亭・レストラン・バー等は納涼床を設ける店舗も多数存在している。

 

 

 

 

 

祇園

 

 

祇園東とは、京都市東山区花見小路通四条上ル東側に位置する花街。

江戸初期に八坂神社の門前で営業された水茶屋がこの花街の始まりである。

後に行政からも花街として公認されることになったが、この際に団子をモチーフにした紋章が作られた。

この紋章は 現在も祇園甲部祇園東の紋章として使われている。

江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、娼妓合わせて1000人以上いたと言い、文人や政治家等に愛され大いに繁栄した。

 

 

 

 

 

祇園甲部

 

 

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祇園甲部とは、京都市東山区にある京都で最大の花街。

寛永年間(1624年〜1645年)に祇園社(現在の八坂神社)の門前で営業された水茶屋が始まりとされる。

京都所司代板倉重宗によって茶立女を置くことが許可され、門前の茶屋町を「祇園町」と称するようになった。

寛文年間になると四条河原町に芝居小屋が建ち、四条通大和大路通にも茶屋が開かれるようになり、弁財天町・二十一軒町・中之町・山端町・宮川町で、「祇園外六町」と称した。

享保17年(1732年)、正式に茶屋渡世の営業許可が下りると元吉町・橋本町・林下町・末吉町・清本町・富永町の「祇園内六町」が開かれ、更に繁栄した。

この際に、団子をモチーフにした紋章が作られた。

この紋章は現在も祇園甲部祇園東の紋章として使われている。

江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、娼妓合わせて1000人以上いたと言う。

 

 

 

 

 

宮川町

 

 

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宮川町とは、京都市東山区の町丁。

宮川筋二丁目から六丁目までが花街である。

出雲阿国の歌舞伎踊りの時代から始まり、当初は遊女が接待をしたり、若衆歌舞伎の小屋と茶屋が立ち並び10代の少年(陰間)が接待をしていた花街だった。

江戸時代頃には売色衆道専業の若衆茶屋(陰間茶屋)も集まった。

その後は江戸の3大改革による度重なる風俗取締りで、若衆歌舞伎や陰間茶屋も打撃を受けた。

明治・大正と、1958年(昭和33年)の売春防止法施行までは遊廓であり、今でも遊廓時代の建物が残っている。

 

 

 

 

 

上七軒

 

 

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上七軒とは、京都市上京区真盛町から社家長屋町に位置する花街である。

室町時代北野天満宮の再建の際に残った資材を使って7軒の茶店を建てた。

これが「上七軒」の由来で、桃山時代豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折に茶店側は団子を献上したところ、大いに誉められて以来、また西陣の結びつきで花街としての繁栄を極める。

毎年春になると上七軒歌舞練場で『北野をどり』が上演されて少数ながらにして良い技芸を磨き披露している。

舞踊の流派は明治以前は篠塚流、その後は花柳流

茶道は西方尼寺で習っている。

現在(2015年)、お茶屋10軒、芸妓、舞妓合わせて31名である。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

先斗町祇園は知っていましたが、他の地域は初めて知りました。

このようなお店は、一見さんお断りのお店が多いので、中々入らないですよね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!