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日本五大山岳城って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、日本五大山岳城について紹介したいと思います!

 

日本五大山岳城に選ばれたのは、

月山富田城島根県安来市

七尾城(石川県七尾市

観音寺城滋賀県近江八幡市

春日山城新潟県上越市

八王子城(東京都八王子市)

の5つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

月山富田城

 

 

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月山富田城とは、島根県安来市広瀬町にあった山城。

戦国時代は戦国大名尼子氏の本城。

国指定史跡。

日本城郭協会選定による「日本100名城」の1つ。

中国地方における代表的な中世城郭の1つで、尼子氏の居城として知られている。

城が築かれた月山は飯梨川右岸にある独立丘で、登り口は塩谷口、御子守口、菅谷口の3つしかなく、周囲は断崖絶壁の天然の要害である。

鎌倉時代には佐々木氏、南北朝時代には山名氏、室町時代には京極氏と、歴代守護の居城であった。

15世紀末頃から京極氏の一族、尼子氏が守護代として居城した。

1484年(文明16年)、尼子経久の時、守護京極氏と対立し月山富田城から追放されたが、1486年(文明18年)に同城を奪回して戦国大名として独立した。

以来、尼子氏は月山富田城を本拠として、最盛期には出雲・隠岐・石見を中心に11ヶ国に勢力を拡大した。

1566年(永禄9年)に毛利元就の軍門に降り、尼子氏は滅亡した。

その後、元就の子の元秋等が居城したが、関ヶ原の戦いの後、堀尾吉晴が入城。

1611年(慶長16年)に堀尾氏が松江城松江市)に移り、廃城となった。

本丸や二の丸等の石垣、土塁、堀切、櫓台、井戸等が残っている。

登城口の御子守口に隣接して安来市立歴史資料館があり、月山富田城の立体模型が展示されている。

JR山陰本線安来駅から安来市広域生活バスで市立病院前下車、徒歩30分。

月山城、富田城とも呼ばれる。

 

 

 

 

 

七尾城

 

 

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七尾城とは、石川県七尾市にあった中世の山城。

国指定史跡。

日本城郭協会選定による「日本100名城」の1つ。

日本五大山城及び日本五大山岳城の1つ。

七尾湾を一望する城山(標高約300m)を中心に、7つの尾根に曲輪を配した大規模な山城だった。

因みに、「七尾」の地名は、この7つの尾根に由来するとも言われる。

能登国守護の畠山満慶(七尾畠山氏初代)が正長年間(1428~1429年)頃に築いた。

当時は砦と呼んでも良い簡素な城塞で、本拠は府中(現七尾市府中)に置かれた守護所だった。

その後、七尾城は次第に増強されて、やがて畠山氏の居城かつ能登支配の本拠となっていった。

能登畠山氏第5代の畠山慶致の頃には守護所も七尾城内に移されたと言われる。

戦国時代に入り、能登では激しい戦乱が続いたこともあって七尾城は更に修増築され、日本有数の規模を持つ堅固な城になった。

1576年(天正4年)から翌1577年(天正5年)9月にかけて、七尾城の戦いが起こる。

織田信長の越前侵攻に危機感を募らせた越後の上杉謙信は、信長との同盟を破棄して、幼君畠山春王丸が家督を継いだことで不安定化していた畠山氏への介入を開始した。

謙信は1577年(天正5年)、大軍をもって能登に侵攻し七尾城を攻めたが、長続連らは七尾城に籠城し、その攻勢を1年に渡って持ちこたえた。

結局、謙信の攻略を許したが、それは支城が落ちて七尾城が孤立したことや、城内での遊佐続光の内応から徹底抗戦を主張した長氏一族が殺害され、開城をしたことによるものだった。

謙信の死後、能登織田信長によって制圧され、七尾城には信長の部将前田利家が入城した。

しかし、山城は時代にそぐわなくなっていた為、利家は間もなく小丸山城(七尾市)に居城を移した。

その後、七尾城には利家の子の前田利政が入城したが、1589年(天正17年)に廃城となった。

利家は能登に入封して間もなく小丸山城に移り、七尾の城下町(今日の七尾市街の原形)も同城付近に移った。

こうしたこともあって、七尾城跡は市街化等の開発を免れた為に、良好な状態でその遺構が残ることになった。

本丸跡の石垣をはじめ各曲輪の石垣等が大変良い状態で残っており、中世の山城を知る貴重な史跡となっている。

JR七尾線七尾駅からバスで古屋敷町下車、徒歩約60分(本丸跡)。

 

 

 

 

 

観音寺城

 

 

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観音寺城とは、滋賀県近江八幡市(旧蒲生郡安土町)にあった山城。

国指定史跡。

日本城郭協会選定による「日本100名城」の1つ。

月山富田城島根県安来市)、七尾城(石川県七尾市)、春日山城新潟県上越市)、八王子城(東京都八王子市)とともに、日本五大山岳城の1つに数えられている。

繖山(標高432.9m)の山上に築かれていた城で、安土城以前の中世城郭としては珍しい総石垣の城である。

古くは宇多源氏佐々木氏が本城としていた城で、佐々木氏が六角・京極・朽木の3流に分かれた後は、嫡流の六角氏が居城としていた城である。

築城年代は明らかではないが、『太平記』によれば、南北朝時代初めの1335年(建武2年)に、六角氏頼が北畠顕家の進攻を防ぐ為に、天台宗の寺院観音正寺を城塞化して立て籠ったのが始まりとされている。

本格的に城郭として整備されたのは応仁の乱(1466~1477年)前後で、当時の城主の六角高頼応仁の乱で西軍に与した為、同じ佐々木流で東軍に属した京極氏と敵対し、屡々観音寺城に籠城して東軍の攻勢を凌いだ。

その後、1556年(弘治2年)には、城主の六角義賢が郭に石垣を巡らす等して城の守りを増強した。

1568年(永禄11)、織田信長足利義昭を奉じて上洛を開始したが、この時、観音寺城六角義賢(承禎)・義弼父子は観音寺城に籠城して敵対した。

織田勢は観音寺城を含む六角方の城を攻撃。

その1つの箕作山城(東近江市)が落城すると、六角父子は観音寺城を捨てて三雲城に退いた為、観音寺城は織田軍に占領された。

その後、同城は廃城となった。

現在、城跡には曲輪、石垣、虎口、井戸、水路等の遺構が残っている。

JR琵琶湖線安土駅から徒歩1時間10分~20分、またはタクシー。

同駅前からレンタサイクルも利用できる。

 

 

 

 

 

春日山城

 

 

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春日山城とは、新潟県上越市にあった中世の山城。

上杉謙信を含む戦国時代の越後長尾氏(上杉氏)4代の居城。

国指定史跡。

日本城郭協会選定による「日本100名城」の1つ。

上越市中部にある標高189mの春日山(蜂ヶ峰)の山頂に築かれた連郭式の城郭で、天然の要害に建つ難攻不落の城と言われていた。

中世五大山城の1つにも数えられている。

春日山の名前は、山麓に奈良の春日大社から勧請された春日神社があったことによる。

この城の築城年代は明らかではないが、南北朝時代越後国守護の上杉氏が越後府中の城館の詰め城として築城したとされる。

1507年(永正4年)、守護代長尾為景が上杉定実を擁立して守護上杉房能を追放し、定実が新守護として府中に入ると、長尾為景春日山城主となった。

その後、長尾晴景を経て、1548年(天文17年)に長尾景虎(後の上杉謙信)が城主となった。

為景は本格的な築城に着手し、景虎(謙信)が現在残る大規模な城郭として完成させた。

1579年(天正7年)には御館の乱を制した上杉景勝が城主となり、1598年(慶長3年)には景勝が会津へ転封となったことから堀秀治が入城。

江戸時代に入り、越後福嶋藩の初代藩主となった。

1607年(慶長12年)、秀治の後継となった子の堀忠俊が直江津に福島城(上越市)を築城、居城・藩庁を同城に移したことに伴い、春日山城は廃城となった。

現在、城跡には曲輪、土塁、空堀、大井戸、現存門等の遺構が残っている。

また、山麓林泉寺の惣門は、春日山城の搦手門を移築したものであると言われている。

1996年(平成8年)には、同城跡北東端の楼門地区が整備され、春日山城史跡広場として公開された。

この広場には発掘調査の成果に基づいて復元された土塁、監物堀、道、番所等がある。

また、春日山城跡ものがたり館があり、春日山城を紹介するビデオ上映の他、川中島合戦図屏風や発掘調査の出土品等が展示されている。

JR信越本線春日山駅から徒歩約30分。

またはJR直江津駅からバス14分で林泉寺入口下車、徒歩約20分。

蜂ヶ峰城とも呼ばれる。

 

 

 

 

 

八王子城

 

 

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八王子城とは、東京都八王子市にあった山城。

国指定史跡。

日本城郭協会選定による「日本100名城」の1つ。

1587年(天正15年)頃に、北条氏康三男の氏照が築城して、その本拠とした城である。

小田原城を本拠とする北条氏の西の最重要軍事拠点となった。

大石氏の家督を相続した氏照は、大石氏が本城としていた滝山城(同市)を整備して居城としていたが、1569年(永禄12年)に武田信玄麾下の小山田信茂の軍勢に攻められて苦戦を強いられたことから、滝山城の向かいの標高445m・比高約240mの深沢山(城山)に新たな山城(八王子城)を築いて居城を移した。

氏照は、この城を築くに当たって織田信長が築いた安土城を参考にして石垣を用いたと言われる。

1590年(天正18年)の小田原の役では、城主の氏照は小田原城に籠城し、落城時に当主北条氏政と共に自害して果てた。

城主不在の八王子城には僅かの家臣と農民・婦女子らの領民等、1000人が立て籠もった。

同城を包囲した前田利家上杉景勝真田昌幸らの豊臣方の連合軍1万5000人は力攻めで1日で落城させ、城内の殲滅戦を行った(八王子合戦)。

この時、氏照の正室をはじめとする女性は自刃あるいは御主殿の滝に身を投げたと言われる。

この戦いの後、八王子城徳川家康の城となったが、家康は同城を廃城とした。

八王子城は今日「城山」と呼ばれる深沢山の麓の居館地区(御主殿)、山上の詰めの城、武家屋敷のある根小屋地区に分かれた典型的な中世の山城である。

同城跡が1951年(昭和26年)に国指定史跡になって以降、発掘調査や整備が進み、かつての城山麓の御主殿跡付近に石垣、虎口、曳橋等が復元された。

同城のあった城山下を首都圏中央連絡自動車道の「八王子城跡トンネル」が通っている。

JR中央線高尾駅からバスで霊園前下車、徒歩約25分(八王子城跡入口まで)。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

山城と山岳城があるようですね。

山城は、どこも最寄駅やバス停から30分くらい歩くことが多いので、いかに険しい土地にあったかが窺えますね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!