こんにちは!
今日は、日本の城跡の新しい現存天守ベスト3について紹介したいと思います!
日本の城跡の新しい現存天守ベスト3とは、
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
国指定史跡。
松山平野の中央部に位置する勝山(標高132m)に築城、壮大な石垣の上に天守、小天守の他、多数の櫓が聳える。
関ヶ原の戦いで戦功があった加藤嘉明は、1602年(慶長7年)、勝山の地形を利用して新城の建設に着手した。
勝山は、南北朝時代に南朝方が砦を築き、戦国時代には河野氏が前衛基地とする等、重要な拠点であった。
翌年、城は建設中にも関わらず、嘉明は居城の松前城から勝山に移り、この城を松山城と命名した。
嘉明の会津転封後の1627年(寛永4年)、蒲生忠知が入封、二の丸等の整備を行った。
嗣子が無い為、蒲生氏が断絶になった後、1635年(寛永12年)、松平(久松)定行が藩主となり、明治維新まで235年間続いた。
1784年(天明4年)の落雷で焼失した天守は、1852年(嘉永5年)に再建された。
現在、城跡は史跡公園となり、天守の他、櫓、門、塀、石垣、堀が現存する。
また、昭和時代の放火や空襲等で失った建築物は、殆どが復元されている。
JR予讃本線松山駅から市内電車10分で大街道下車、徒歩5分。
ロープウェイで山上へ。
伊予松山城、金亀城、勝山城とも言う。
国指定史跡。
3重の濠と土塁に囲まれた約50万㎡の敷地に、江戸時代に建造された3重3階の独立天守や櫓や門等が現存しており、3層の天守閣、櫓3棟、城門5棟が残され、いずれも国の重要文化財に指定されている。
この城は、津軽統一を成し遂げた戦国武将の津軽為信(大浦為信)が1603年(慶長8年)に、4万7000石の弘前藩の中心となる城として築城を開始し、死後の1611年(慶長16年)に完成した。
以後、藩主津軽氏の居城、弘前藩の政庁として廃藩に至るまでの260年間、藩政の中心となった。
当初、5層の天守閣が2代藩主信枚により建造されたが、1627年(寛永4年)に落雷で焼失し、現在残っている3層の天守は9代藩主寧親が1810年(文化7年)に再建したものである。
また、弘前城を中心とした一帯は弘前公園となっており、桜の名所として全国的に知られる。
天守閣は津軽藩政時代の歴史資料を展示する弘前城史料館となっている。
JR弘前駅前からバスで市役所前公園入口或いは文化センター前下車後、いずれも徒歩10分。
鷹岡城、高岡城とも言う。
国指定史跡。
本丸の建物の殆どが現存する国内唯一の城である。
高知平野の中央に位置し、鏡川と江ノ口川を外堀として利用、大高坂山(標高40m)の山頂を石垣や塀で囲み、南に本丸、北に二の丸、北東に三の丸を配した。
関ヶ原の戦いで戦功を挙げた山内一豊は、土佐一国を与えられ、1601年(慶長6年)、浦戸城(高知市)に入った。
しかし、浦戸は土地が狭い為、城下町を作るには不適と考え、新しい城地に大高坂山を選び、築城を開始した。
元々この地は、南北朝時代に築かれた大高坂山城があった所。
また、1588年(天正16年)、長宗我部元親が、岡豊城から移り住んだものの、洪水に悩まされて数年で撤退していた。
1603年(慶長8年)に本丸と二の丸が完成した為、一豊は浦戸城を廃して入城した。
この時、2つの川の間に立地することから、河中山城と改めた。
2代藩主の忠義は、水害が繰り返されることから「河中」の文字を忌み嫌い、高智山城と改名した。
後に省略して高知城、地名も高知と呼ぶようになる。
1611年(慶長16年)に三の丸が竣工し、高知城が完成した。
聳える天守は、一豊の前任地である掛川城(静岡県掛川市)の天守を模したものと言う。
1727年(享保12年)、城下の大火に類焼して、殆どの建築物を焼失した。
8代豊敷は、1729年(享保14年)から城の再建に取り掛かり、1753年(宝暦3年)に完了した。
現在ある建造物は、この時に再建されたものである。
以来、高知城は大きな修築は無く、山内家16代の居城として明治維新を迎えた。
1873年(明治6年)の廃城令により高知公園になり、現存する建造物以外のものは取り壊された。
現在、四重6階の天守、本丸御殿、黒鉄門、詰門、廊下門、西多聞櫓、東多聞櫓、石垣、土塀、堀等が現存する。
大高坂山城、河中山城とも言う。
如何でしたか?
意外な3つの城がランクインしていますね。
そもそも、昔から現存する天守なのか、新しく作られた天守なのかで大きく違いますからね。
昔から残っているのは、やはり凄いことですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!