こんにちは!
今日は、日本三大夜城について紹介したいと思います!
日本三大夜城に選ばれたのは、
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
国特別史跡。
1496年(明応5年)、石山の地に本願寺8世蓮如が坊舎を建立したのが始まりで、戦国時代には石山本願寺が置かれていた。
周囲に濠を巡らした城郭寺院で、織田信長に攻められても容易に落ちなかった。
和議を結んで紀州(和歌山県)鷺森に移った石山本願寺の跡地に築城されたのが、天下の名城として名を馳せた大坂城だった。
しかし、1615年(元和1年)、大坂城は大坂夏の陣で豊臣秀頼とともに灰塵に帰した。
豊臣氏滅亡後、松平忠明が大坂に入り整備にあたったが、1619年(元和5年)、幕府直轄領となり、翌1620年(元和6年)から大坂城築城が開始された。
豊臣色を払拭するとともに、西国の軍事拠点として、豊臣氏時代の大坂城を地下に埋め尽くしその上に徳川大坂城を築くもので、漸く完成したのは1630年(寛永7年)である。
大坂城の魅力の1つは石垣の美しいことで、巨大な石を用いた高さ30mの石垣は日本最大。
築城には40万個の石が使われたと言われる。
城跡は大阪城公園となり、大手門、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、金蔵、焔硝櫓、金明水井戸屋形、桜門(以上重要文化財)、内堀・石垣等が残っている。
5層5階の大天守は1665年(寛文5年)に落雷の為、焼失し、現在のものは1931年(昭和6年)に復興されたものである。
JR大阪環状線大阪城公園駅または森ノ宮駅、地下鉄天満橋駅または森ノ宮駅、谷町四丁目駅から徒歩15~20分。
国指定史跡。
本丸の建物の殆どが現存する国内唯一の城である。
高知平野の中央に位置し、鏡川と江ノ口川を外堀として利用、大高坂山(標高40m)の山頂を石垣や塀で囲み、南に本丸、北に二の丸、北東に三の丸を配した。
関ヶ原の戦いで戦功を挙げた山内一豊は、土佐一国を与えられ、1601年(慶長6年)、浦戸城(高知市)に入った。
しかし、浦戸は土地が狭い為、城下町を作るには不適と考え、新しい城地に大高坂山を選び、築城を開始した。
元々この地は、南北朝時代に築かれた大高坂山城があった所。
また、1588年(天正16年)、長宗我部元親が、岡豊城から移り住んだものの、洪水に悩まされて数年で撤退していた。
1603年(慶長8年)に本丸と二の丸が完成した為、一豊は浦戸城を廃して入城した。
この時、2つの川の間に立地することから、河中山城と改めた。
2代藩主の忠義は、水害が繰り返されることから「河中」の文字を忌み嫌い、高智山城と改名した。
後に省略して高知城、地名も高知と呼ぶようになる。
1611年(慶長16年)に三の丸が竣工し、高知城が完成した。
聳える天守は、一豊の前任地である掛川城(静岡県掛川市)の天守を模したものと言う。1727年(享保12年)、城下の大火に類焼して、殆どの建築物を焼失した。
8代豊敷は、1729年(享保14年)から城の再建に取り掛かり、1753年(宝暦3年)に完了した。
現在ある建造物は、この時に再建されたものである。
以来、高知城は大きな修築は無く、山内家16代の居城として明治維新を迎えた。
1873年(明治6年)の廃城令により高知公園になり、現存する建造物以外のものは取り壊された。
現在、四重6階の天守、本丸御殿、黒鉄門、詰門、廊下門、西多聞櫓、東多聞櫓、石垣、土塀、堀等が現存する。
大高坂山城、河中山城とも言う。
高田城
新潟県指定史跡。
越後高田藩の藩庁の置かれていた城である。
旧高田市街の中心部に位置し、本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸を配した城で、関川、青田川などを外堀として、曲輪には石垣を用いず土塁を採用した城郭である。
1610年(慶長15年)、徳川家康六男の松平忠輝が信濃川中島から越後高田藩60万石に入封した。
この時、忠輝は福島城(上越市)に入城したが、1614年(慶長19年)、忠輝は福島城を廃して、高田城を築城し、同城を居城及び藩の政庁とした。
この時、天守は作られず、その代用として、江戸城の富士見櫓に似た外観の3重3階の三階櫓が作られた。
この時、城の縄張りと工事を監督したのは伊達政宗(忠輝の舅)と言われ、建設には上杉家や前田家等の外様大名が動員された。
しかし、その2年後、忠輝は将軍秀忠により改易されてしまう。
その後、1624年(寛永1年)には松平光長が越前北ノ庄から26万石で入封、入城した。
光長は1665年(寛文5年)の高田地震で倒壊した三階櫓を再建し、高田城下や直江津港の整備等を行ったが、越後騒動(御家騒動)により1681年(天和1年)に改易となった。
以降、榊原氏、稲葉氏、松平氏等が城主を務めて明治維新に至るが、江戸時代中期以降は不始末を犯した親藩や譜代大名の懲罰的な転封先となった。
1870年(明治3年)に三階櫓と本丸御殿が焼失し、1873年(明治6年)には廃城令により焼失を免れた建物も取り壊された。
その後、城の東半分が陸軍高田連隊の駐屯地となった為、堀や土塁が撤去された。
現在、土塁と堀が残る城跡の西半分が高田公園として整備されている。
城の遺構は、前述した経緯から長らく土塁と堀のみだったが、1993年(平成5年)に上越市により三階櫓が、また、2002年(平成14年)には二の丸と本丸の間に架かっていた極楽橋が再建された。
再建された三階櫓の1、2階は展示室、3階は展望室になっている。
なお、高田公園の桜は日本三大夜桜の1つとされているが、これは陸軍の駐屯地となった時に3000本のソメイヨシノが植えられたことによる。
また、外堀の大半が蓮に覆われ、毎年「蓮まつり」が開催されているが、これは明治維新後、失職した旧藩士救済のため蓮根栽培が行われたことに由来する。
鮫ヶ城、関城、高陽城とも呼ばれる。
如何でしたか?
高田城は、初めて聞いた城でした。
大名になった城主が次々と改易されているのが少し興味深かったです。
高知城も行ったことがないので、1度行ってみたいです。
最後までお読み頂き有難う御座いました!