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日本の城跡の古い現存天守ベスト3って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、日本の城跡の古い現存天守ベスト3について紹介したいと思います!

 

日本の城跡の古い現存天守ベスト3とは、

1位:犬山城(愛知県犬山市

2位:松本城(長野県松本市

3位:彦根城滋賀県彦根市

の3つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

犬山城

 

 

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犬山城とは、愛知県犬山市にあった平山城

日本城郭協会選定による「日本100名城」の1つ。

木曽川沿いの丘の上に築かれた城郭である。

江戸時代前後に建造された天守閣が現存する数少ない城の1つで、天守閣は国宝に指定されている。

1469年(文明1年)に室町幕府管領斯波義郷の家臣だった織田広近がこの地に砦を築いたのが犬山城の起源とされる。

1537年(天文6年)、木ノ下城(犬山市)を居城としていた織田信康織田信長の叔父)が城を改修して居城を移した。

現存する天守の2階までの部分はこの頃に作られたと推定されている。

1567年(永禄10年)、信康の子信清の代に、犬山城は対立していた織田信長に攻め取られ、池田恒興織田勝長等が城主を務めた。

1582年(天正10年)に信長が本能寺の変で死去した後、犬山城清洲城を居城とした信長の次男織田信雄の支城となり、信雄配下の中川定成が城主として入城したが、1584年(天正12年)に旧城主の池田恒興が奇襲により城を奪取した。

これが後の小牧・長久手の戦いの原因の1つとなった。

その後、犬山城主は三好吉房を経て石川貞清が務めた。

この石川貞清が城主を務めていた時代に、美濃(岐阜県)の金山城天守犬山城に移築したという伝承があるが、1961年(昭和36年)の天守の解体修理の際に行われた調査の結果、この移築説は否定された。

その後、城主の貞清は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍に属した為に没落し、小笠原吉次、平岩親吉を経て、1617年(元和3年)には尾張藩付家老の成瀬正成が城主となり、以後、明治維新まで成瀬氏9代の居城となった。

明治の廃藩置県により犬山城は廃城となり、天守を除く櫓・城門などの大部分が取り壊され、1891年(明治24年)の濃尾地震天守の付櫓が破壊され、また、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風でも被害を受けた。

この為、1961年(昭和36年)から1965年(昭和41年)にかけて解体修理が行われている。

2004年(平成16年)4月、個人所有だった犬山城は財団法人犬山城白帝文庫に移管され、現在に至っている。

野面積みと呼ばれる積み方で作られた高さ5mの石垣の上に、高さ19mの天守閣が建っている。

また、明治の廃藩置県の際に払い下げられた犬山城の矢来門が専修院(丹羽郡扶桑町)に、黒門が徳林寺(丹羽郡大口町)に、松之丸門が浄蓮寺(一宮市)に、内田門と伝えられる城門が瑞泉寺犬山市)に移築・現存している他、幾つかの城門が蓮善寺(一宮市)等に移築されて残っている。

名鉄犬山線名鉄犬山駅または犬山遊園駅から徒歩約15分。

白帝城、亀甲城とも呼ばれる。

別称の白帝城は、古代中国の長江流域にあった白帝城を詠んだ李白の詩「早發白帝城」に因んで、江戸時代に荻生徂徠命名したと伝えられている。

 

 

 

 

 

松本城

 

 

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松本城とは、長野県松本市にあった平城。

国指定史跡。

日本城郭協会選定による「日本100名城」の1つ。

また、天守をはじめとする建造物が国宝に指定されている。

松本城は元々深志城と呼ばれていた。

戦国時代の信濃国守護の小笠原氏(府中小笠原氏)の居城の林城の支城として作られたが、信濃に侵攻し小笠原氏を滅ぼした武田晴信武田信玄)は、松本平経営の拠点として林城ではなく深志城を取り立て、林城を廃城として深志城を整備した。

1582年(天正10年)に武田氏が滅亡すると、徳川家康に臣従していた小笠原貞慶が旧領を回復して深志城に入城。

この時、城名を松本城に改めた。

しかし、1590年(天正18年)の小田原北条氏滅亡後、家康の旧北条氏領の関東への国替えに伴い、貞慶は下総国古河(茨城県古河市)に移封となり、松本城には、家康の重臣から豊臣秀吉の家臣になった石川数正が入城した。

現在残されているような天守をはじめとする城郭や城下町の整備を行ったのは数正とその子康長である。

天守の建造年については1591年(天正19年)、1593年(文禄3年)、1597年(慶長2年)、1600~1601年(慶長5~6年)、1615年(慶長20年)説が提起され、現在の所、決着はついていない。

その後、城主の石川康長が1613年(慶長18年)に大久保長安事件に連座して改易となった後、短期間だが小笠原氏が城主として復帰。

更に、1615年(元和1年)の大坂夏の陣以降に松平康長、水野氏が城主を務めた後、再び松平康長が入城、以降、康長を始祖とする戸田松平氏が代々城主を務めて明治維新を迎えた。

この間、1727年(享保12年)に本丸御殿が焼失、以後の代々の藩主は二の丸で執務をとったと言われる。

また、廃城後の1872年(明治5年)には天守が競売にかけられ解体の危機に陥ったが、地元有力者らに買い戻され難を逃れた。

また、天守が傾く程老朽化が進んだが、地元有志により「明治の大改修」が行われた。

1930年(昭和5年)には国の史跡に指定され、1936 年(昭和11年)には天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の5棟が「国宝保存法」により国宝に指定された。

更に戦後の1952年(昭和27年)には、これら5棟は「文化財保護法」により改めて国宝指定を受けて現存している。

なお、松本城は、江戸時代以前の建造当時の姿を留めている天守を持つ数少ない城の1つである。

こうした城は、松本城を含め12城に過ぎない(正式には天守ではない櫓を持つ城を含めれば14城)。

この他、明治時代に二の丸に筑摩県庁が置かれて、その後県庁舎は火災に遭ったが、この火災で類焼を免れた御金蔵が現存する他、1999年(平成11年)には太鼓門が復元された。

また、大手門二の門、南門が市内に移築されて現存している。

JR篠ノ井線大糸線松本電鉄上高地線松本駅から徒歩約20分。

JR大糸線松本駅から徒歩約7分。

烏城とも通称される。

 

 

 

 

 

彦根城

 

 

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彦根城とは、滋賀県彦根市にあった平山城

琵琶湖畔の小高い独立丘陵である彦根山(金亀山、標高136m)を中心に作られ、江戸時代には彦根藩の藩庁が置かれ、譜代大名の井伊氏14代が居城とした城である。

城郭は国の特別史跡天守、附櫓、多聞櫓は国宝に指定され、城北側の玄宮園・楽々園(大名庭園)は国指定の名勝となっている。

安土桃山時代から江戸時代に建造された天守のうち、12ヶ所の天守が現存するが、彦根城天守はその1つで、更に国宝に指定されている天守を持つ4つの城のうちの1つである。

日本城郭協会選定による「日本100名城」の1つ。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで活躍した徳川四天王の1人の井伊直政は、戦後、敵将石田三成の居城の佐和山城彦根市)と近江国北東部の領地を与えられ、彦根藩の初代藩主となった。

直政は新たな居城の築城を計画したが、関ヶ原の戦いで負った戦傷を悪化させて1602年(慶長7年)に死去した。

家督を継いだ井伊直継は父直政の遺志を継いで、1603年(慶長8年)に築城を開始した。

その工事は、幕府から尾張藩や越前藩等、7ヶ国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請で、着工の3年後に天守が完成して直継が入城。

その後も彦根藩が独自に築城を継続させ、1622年(元和8年)に全ての工事が完了した。

彦根城の築城にあたっては、大津城(大津市)の天守佐和山城の佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城長浜市)の西の丸三重櫓の他、観音寺城近江八幡市)の建造物等が移築され、また、数多くの近隣の城の木材や石材等が使われた。

幕府大老となった第13代藩主の井伊直弼の時代の1854年安政1年)、天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分の積み直しが行われ、築城当初からのごぼう積みの石積みと、新たに積み直された落とし積みの石垣が混在している。

明治維新後、廃城令によって日本全国の多くの城が破却・解体処分となる中、彦根城は破却を免れた為、国宝に指定された天守、附櫓、多聞櫓をはじめ、安土桃山時代から江戸時代にかけて作られた5棟の櫓門、重要文化財指定の馬屋等、貴重な建造物が残っている。

また、同市の市制50周年を記念して御殿が復元され、彦根城博物館として江戸時代の調度や武具等が展示されている。

JR東海道本線琵琶湖線彦根駅から徒歩約15分。

または、JR東海道新幹線米原駅から車で約20分。

金亀城とも呼ばれる。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

こちらの方が新しい天守より有名ですね。

江戸時代以前に建てられた城が残っているのは、非常に興味深いですね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!