こんにちは!
今日は、日本三大木造復元城について紹介したいと思います!
日本三大木造復元城に選ばれたのは、
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
肱川の流れを利用して内堀・外堀を設け、肱川に面した地蔵ヶ嶽(標高20m)に築かれた。
1331年(元徳3年)、守護の宇都宮豊房が築城したとされる。
長く宇都宮氏の居城だったが、豊臣秀吉の四国制覇により、小早川隆景が入封し、支城とした。
その後、戸田勝隆が入城し、続いて入封した藤堂高虎と脇坂安治の時代に、近世の城郭として整備された。
脇坂氏の代には、地蔵ヶ嶽山頂に本丸を構えて天守を建立、また地名を大津から大洲に改めた。
1617年(元和3年)、加藤氏が大洲藩主となり、以後12代続いた。
多くの櫓や門は、明治時代に取り壊されたが、住民の保存活動により天守と櫓の一部は残された。
しかし、天守は老朽化などの理由で、1888年(明治21年)に解体された。
現在、台所櫓や南隅櫓等、4棟の櫓が現存する他、2004年(平成16年)に四重4階の天守が復元された。
JR予讃本線伊予大洲駅から徒歩20分。
地蔵ヶ嶽城、比志城、大津城とも言う。
白石城とは、宮城県白石市中心部の益岡公園付近にあった平山城。
1088年(寛治2年)の後三年の役で、戦功により白石を与えられた刈田左兵衛尉経元が築城したのがその始まりとされる。
その後、地元の土豪・白石氏の居城となり伊達氏の勢力下に入った。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉の奥州仕置で蒲生氏郷の城となり、その後、会津に転封された上杉景勝の属城となった。
1600年(慶長5年)、徳川家康が上杉討伐の軍を起こすと、それに呼応した伊達政宗が白石城を奪い取った。
その後、政宗側近の片倉(小十郎)景綱が城主となり、その後明治維新まで片倉氏の居城となった。
江戸幕府は1615年(元和1年)、一国一城令を布告し、各藩に大名が居住或いは政庁とする城1つを残して、その他の城を全て廃城にすることを命じたが、白石城は例外的にその存続を認められている(仙台藩内のその他の支城は廃城となったり、要害と名を変えて存続することになった)。
戊辰戦争下の1868年(明治1年)、奥州14藩の代表はこの城で会同し、この会同は奥羽越列藩同盟の結成に繋がった。
戊辰戦争後、盛岡から転封された南部家の居城となったが、その後破却され、1875年(明治8年)に売却されている。
その売却代金は片倉家の北海道移住の資金に充てられたと言われている。
この時、城の建物は解体されてしまったが、1995年(平成7年)に三階櫓(天守閣)と大手門が復元されている。
益岡城、枡岡城とも呼ばれる。
また、二の丸御殿が国の重要文化財に指定されている。
守護大名今川義忠が文明年間(1469~1487年)に、遠江支配の拠点として重臣の朝比奈泰煕に命じて築城させたと伝えられており、その後、今川氏の統治下で朝比奈氏が城主を務めた。
1568年(永禄11年)、今川氏真の駿府館が甲斐の武田信玄、三河の徳川家康に攻められた際、氏実は駿府館を捨てて、朝比奈泰朝の掛川城に逃亡した。
この為、掛川城は家康の包囲攻撃を受けた。
城は容易に落城しなかったものの、泰朝は主君の氏真の身の安全と引き替えに、掛川城を開城して徳川氏に引き渡し、氏真と共に小田原城へ退去した。
その後、掛川城には家康の重臣、石川家成・康通父子が城代として入城。
徳川氏は駿河に進出した武田信玄と敵対したことから、掛川城は高天神城等とともに激しい攻防が繰り広げられた。
1590年(天正18年)に家康が関東移封になると、掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が5万1000石(後に5万9000石)で入城した。
一豊は城の大幅な拡張を行い、石垣・瓦葺きの建築物・天守等を築造して近世の城郭としての体裁を整えた。
現在残る城の縄張りは一豊によるものとされる。
城主の一豊は、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの戦功により土佐(高知県)を与えられたことから、高知城に居城を移した。
その後は松平・安藤・青山・本多・北条・井伊・小笠原氏等、数多くの譜代大名が掛川藩主として入城し、1746年(延享3年)に入城した太田道灌の子孫の太田氏を代々の城主として明治維新を迎えた。
1621年(元和7年)に再建されたものの、1854年(安政1年)の地震で再び倒壊した。
明治維新後、震災を免れた建物も廃城令によって一部を残して撤去され、城の遺構も道路や庁舎の建設により失われた。
1994年(平成6年)、日本初の木造の復元天守が、山内一豊築城当時の「正保城絵図」に基づいて建設され、その他の一部の建物や塀、堀、土塁、石塁等の復元も行われて今日に至っている。
現在、天守台を含む本丸を中心とした一帯が公園として整備されている。
城跡には前述の復元天守の他、1861年(文久1年)に再建された二の丸御殿(国重要文化財)、本丸跡には三の丸から移築した太鼓櫓、掛川市の重要文化財に指定されている大手門番所等が現存する。
また、明治維新後に、袋井市の油山寺に移築された玄関下御門があり、この門も国の重要文化財に指定されている他、蕗(富貴)の門が市内円通寺の山門として、またどこの門かは不明だが菊川市の龍雲寺の裏門として移築され現存している。
JR東海道本線・天竜浜名湖鉄道の天竜浜名湖線掛川駅から徒歩約7分。
雲霧城、松尾城とも呼ばれる。
懸川城、懸河城とも記される。
如何でしたか?
どこも中々マイナーな城かもしれないですね。
私は1つも行ったことがないので、いつか行ってみたいです。
最後までお読み頂き有難う御座いました!