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日本五大山城って何?

こんにちは!

 

 

今日は、日本五大山城について紹介したいと思います!

 

日本五大山城に選ばれたのは、

小谷城滋賀県長浜市

観音寺城滋賀県近江八幡市

月山富田城島根県安来市

春日山城新潟県上越市

七尾城(石川県七尾市

の5つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

小谷城

 

 

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小谷城とは、滋賀県長浜市(旧東浅井郡湖北町)にあった山城(やまじろ)。

国指定史跡。

日本城郭協会選定による「日本100名城」の1つ。

北近江の戦国大名浅井氏の居城。

小谷山(伊部山、標高約495m)の南の尾根筋に築かれた城で、堅固な山城として知られ、その後、日本五大山城の1つに数えられた城郭である。

『浅井三代記』によれば、1516年(永正13)に浅井亮政(すけまさ)によって築かれたとされているが、さまざまな史料から、1523~24年(大永3~4)築城説が有力になっている。

同城は築城後、亮政・久政・長政の浅井氏3代が居城とした。

浅井氏は南近江の六角氏と戦いながら戦国大名として成長し、浅井長政織田信長の妹お市の方を妻に迎えて織田氏と同盟して全盛を築いた。

しかし、信長と越前国朝倉義景の対立が深まると、朝倉氏に与したことから、織田勢との武力対立(元亀・天正の騒乱)に発展した。

1570年(元亀1)、小谷城の南約5kmで織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍が激突し(姉川の戦い)、織田・徳川勢が勝利したが、信長はその堅固さから小谷城を引き続き攻略することを断念し、姉川南岸に付け城(横山城)を築城して、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)を城将とした。

その後、浅井氏の属城であった磯野員昌の佐和山城彦根市)や宮部継潤の宮部城(長浜市)が次々と織田方に寝返り、小谷城の支城で同城の防衛拠点だった阿閉(あつじ)貞征の山本山城(阿閉城、長浜市)が秀吉の調略により、織田氏に転じるに及んで、1573年(天正1)、ついに小谷城は織田方により陥落し、長政と妻のお市の方は3人の娘を信長の許に送った後、城内で自害した。

浅井氏滅亡後、信長は軍功のあった羽柴秀吉に浅井氏の旧領のうちの伊香郡浅井郡坂田郡の3郡12万石を与えた。

秀吉は琵琶湖から遠く交通の便の悪い小谷城を居城とせず、1575年(天正3)に今浜(その後、長浜と改名)に新たに長浜城長浜市)を築いて居城とした。

そのため小谷城は廃城となった。

なお、小谷城の資材は長浜城の築城に用いられた。

小谷城は小谷山から続く尾根筋に数多くの郭を設けていた南北に長い城郭で、その中心部の本丸と中丸との間には深さ5~10mほどの堀切があり、この堀切で南北に分かれていた。

前述したとおり、同城落城後、その資材が解体され長浜城に利用されてしまったため、城跡は往時の姿をとどめていないが、郭の1つの山王丸付近に大石垣の一部(高さ約4~5m、長さ約30m)が現存している。

このほか、空掘、土塁、堅堀跡などが残っている。

なお、小谷山山頂には支城の大嶽城跡がある。

JR北陸本線河毛駅から湖北町タウンバスで小谷城址口下車。

本丸曲輪(くるわ)部分までは登山口から徒歩約20分。

 

 

 

 

 

観音寺城

 

 

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観音寺城とは、滋賀県近江八幡市(旧蒲生郡安土町)にあった山城(やまじろ)。

国指定史跡。

日本城郭協会選定による「日本100名城」の1つ。

月山富田城島根県安来市)、七尾城(石川県七尾市)、春日山城新潟県上越市)、八王子城(東京都八王子市)とともに、日本五大山岳城の1つに数えられている。

繖(きぬがさ)山(標高432.9m)の山上に築かれていた城で、安土城以前の中世城郭としては珍しい総石垣の城である。

古くは宇多源氏佐々木氏が本城としていた城で、佐々木氏が六角・京極・朽木の3流に分かれた後は、嫡流の六角氏が居城としていた城である。

築城年代は明らかではないが、『太平記』によれば、南北朝時代初めの1335年(建武2)に、六角氏頼が北畠顕家の進攻を防ぐために、天台宗の寺院観音正寺を城塞化して立てこもったのが始まりとされている。

本格的に城郭として整備されたのは応仁の乱(1466~77年)前後で、当時の城主の六角高頼応仁の乱で西軍に与したため、同じ佐々木流で東軍に属した京極氏と敵対し、しばしば観音寺城に籠城して東軍の攻勢をしのいだ。

その後、1556年(弘治2)には、城主の六角義賢が郭に石垣をめぐらすなどして城の守りを増強した。

1568年(永禄11)、織田信長足利義昭を奉じて上洛を開始したが、このとき、観音寺城六角義賢(承禎)・義弼父子は観音寺城に籠城して敵対した。

織田勢は観音寺城を含む六角方の城を攻撃。

その1つの箕作山城(東近江市)が落城すると、六角父子は観音寺城を捨てて三雲城に退いたため、観音寺城は織田軍に占領された。

その後、同城は廃城となった。

現在、城跡には曲輪(くるわ)、石垣、虎口、井戸、水路などの遺構が残っている。

JR琵琶湖線安土駅から徒歩1時間10分~20分、またはタクシー。

同駅前からレンタサイクルも利用できる。

 

 

 

 

 

月山富田城

 

 

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月山富田城とは、島根県安来(やすぎ)市広瀬町にあった山城(やまじろ)。

戦国時代は戦国大名尼子(あまご)氏の本城。

国指定史跡。

日本城郭協会選定による「日本100名城」の1つ。

中国地方における代表的な中世城郭の1つで、尼子氏の居城として知られている。

城が築かれた月山は飯梨川右岸にある独立丘で、登り口は塩谷(しおたに)口、御子守口、菅谷(すがたに)口の3つしかなく、周囲は断崖絶壁の天然の要害である。

鎌倉時代には佐々木氏、南北朝時代には山名氏、室町時代には京極氏と、歴代守護の居城であった。

15世紀末頃から京極氏の一族、尼子氏が守護代として居城した。

1484年(文明16)尼子経久(つねひさ)のとき、守護京極氏と対立し月山富田城から追放されたが、1486年(文明18)に同城を奪回して戦国大名として独立した。

以来、尼子氏は月山富田城を本拠として、最盛期には出雲・隠岐・石見を中心に11ヵ国に勢力を拡大した。

1566年(永禄9)に毛利元就(もとなり)の軍門に降り、尼子氏は滅亡した。

その後、元就の子元秋(もとあき)などが居城したが、関ヶ原の戦いの後、堀尾吉晴(ほりおよしはる)が入城。

1611年(慶長16)に堀尾氏が松江城松江市)に移り、廃城となった。

本丸や二の丸などの石垣、土塁、堀切、櫓(やぐら)台、井戸などが残っている。

登城口の御子守口に隣接して安来市立歴史資料館があり、月山富田城の立体模型が展示されている。

JR山陰本線安来駅から安来市広域生活バスで市立病院前下車、徒歩30分。

月山城、富田城とも呼ばれる。

 

 

 

 

 

春日山城

 

 

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春日山城とは、新潟県上越市にあった中世の山城(やまじろ)。

上杉謙信を含む戦国時代の越後長尾氏(上杉氏)4代の居城。

国指定史跡。

日本城郭協会選定による「日本100名城」の1つ。

上越市中部にある標高189mの春日山(蜂ヶ峰)の山頂に築かれた連郭式の城郭で、天然の要害に建つ難攻不落の城といわれていた。

中世五大山城の1つにも数えられている。

春日山の名前は、山麓に奈良の春日大社から勧請された春日神社があったことによる。

この城の築城年代は明らかではないが、南北朝時代越後国守護の上杉氏が越後府中の城館の詰め城として築城したとされる。

1507年(永正4)、守護代長尾為景が上杉定実を擁立して守護上杉房能を追放し、定実が新守護として府中に入ると、長尾為景春日山城主となった。

その後、長尾晴景を経て、1548年(天文17)に長尾景虎(のちの上杉謙信)が城主となった。

為景は本格的な築城に着手し、景虎(謙信)が現在残る大規模な城郭として完成させた。

1579年(天正7)には御館の乱を制した上杉景勝が城主となり、1598年(慶長3)には景勝が会津へ転封となったことから堀秀治が入城。

江戸時代に入り、越後福嶋藩の初代藩主となった。

1607年(慶長12)、秀治の後継となった子の堀忠俊が直江津に福島城(上越市)を築城、居城・藩庁を同城に移したことに伴い、春日山城は廃城となった。

現在、城跡には曲輪(くるわ)、土塁、空堀、大井戸、現存門などの遺構が残っている。

また、山麓林泉寺の惣門は、春日山城の搦手門を移築したものであるといわれている。

1996年(平成8)には、同城跡北東端の楼門地区が整備され、春日山城史跡広場として公開された。

この広場には発掘調査の成果に基づいて復元された土塁、監物堀、道、番所などがある。

また春日山城跡ものがたり館があり、春日山城を紹介するビデオ上映のほか、川中島合戦図屏風や発掘調査の出土品などが展示されている。

JR信越本線春日山駅から徒歩約30分。

またはJR直江津駅からバス14分で林泉寺入口下車、徒歩約20分。

蜂ヶ峰城とも呼ばれる。

 

 

 

 

 

七尾城

 

 

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七尾城とは、石川県七尾市にあった中世の山城(やまじろ)。

国指定史跡。

日本城郭協会選定による「日本100名城」の1つ。

日本五大山城および日本五大山岳城の1つ。

七尾湾を一望する城山(標高約300m)を中心に、7つの尾根に曲輪(くるわ)を配した大規模な山城だった。

ちなみに、「七尾」の地名は、この7つの尾根に由来するともいわれる。

能登国守護の畠山満慶(七尾畠山氏初代)が正長年間(1428~29年)ごろに築いた。

当時は砦とよんでもよい簡素な城塞で、本拠は府中(現七尾市府中)に置かれた守護所だった。

その後、七尾城はしだいに増強されて、やがて畠山氏の居城かつ能登支配の本拠となっていった。

能登畠山氏第5代の畠山慶致のころには守護所も七尾城内に移されたといわれる。

戦国時代に入り、能登では激しい戦乱が続いたこともあって七尾城はさらに修増築され、日本有数の規模を持つ堅固な城になった。

1576年(天正4)から翌1577年(天正5)9月にかけて、七尾城の戦いが起こる。

織田信長の越前侵攻に危機感をつのらせた越後の上杉謙信は、信長との同盟を破棄して、幼君畠山春王丸が家督を継いだことで不安定化していた畠山氏への介入を開始した。

謙信は1577年(天正5)、大軍をもって能登に侵攻し七尾城を攻めたが、長続連(ちょうつぐつら)らは七尾城に籠城し、その攻勢を1年にわたって持ちこたえた。

結局、謙信の攻略を許したが、それは支城が落ちて七尾城が孤立したことや、城内での遊佐続光の内応から徹底抗戦を主張した長氏一族が殺害され、開城をしたことによるものだった。

謙信の死後、能登織田信長によって制圧され、七尾城には信長の部将前田利家が入城した。

しかし、山城は時代にそぐわなくなっていたため、利家は間もなく小丸山城(七尾市)に居城を移した。

その後、七尾城には利家の子の前田利政が入城したが、1589年(天正17)に廃城となった。

利家は能登に入封して間もなく小丸山城に移り、七尾の城下町(今日の七尾市街の原形)も同城付近に移った。

こうしたこともあって、七尾城跡は市街化などの開発を免れたために、良好な状態でその遺構が残ることになった。

本丸跡の石垣をはじめ各曲輪の石垣などがたいへんよい状態で残っており、中世の山城を知る貴重な史跡となっている。

JR七尾線七尾駅からバスで古屋敷町下車、徒歩約60分(本丸跡)。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

現在は、全て残っていないようですね。

個人的には、尼子経久が好きなので、月山富田城に行ってみたいと思いました。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!