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戦国三美人って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、戦国三美人について紹介したいと思います!

 

戦国三美人に選ばれたのは、

お市の方

細川ガラシャ

松の丸殿

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

お市の方

 

 

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お市の方とは、戦国時代の女性。

名はお市

織田信秀の娘で信長の妹。

1567年(永禄10年)末か翌年初めに北近江の戦国大名である浅井長政に嫁いだ。

長政の居城小谷に居た為、小谷の方ともで呼ばれた。

輿入れの年次については1564年説、1561年説もある。

いずれにせよ、信長が上洛の為の布石として長政と同盟を結ぶ為の政略結婚であった。

1573年(天正1年)の小谷落城の時には3人の娘(茶々、初、小督)と共に城を出て、後に1582年、甥の信孝の計らいで柴田勝家と再婚させられ、越前北庄に赴いている。

翌1583年、勝家と羽柴(豊臣)秀吉が賤ヶ岳に戦い、勝家が敗れた為、北庄城に籠城し、秀吉の軍勢に攻められ、夫勝家と共に自刃した。

 

 

 

 

 

細川ガラシャ

 

 

細川ガラシャとは、細川忠興の夫人。

キリシタン婦人としても著名。

ガラシャは教名で、本名は「玉」。

明智光秀の娘で、織田信長のとりなしによって、細川藤孝(幽斎)の嫡男である与一郎忠興に嫁した。

丹後(京都府)の宮津で過ごす間、聡明な玉は禅宗について学ぶところがあったが、本能寺の変(1582年)が起こり、反逆人の娘として丹後の味土野に幽閉された。

やがて大坂の細川邸に戻ることを許されたが、そこで夫の忠興からキリシタン宗門について間接的に教わるところがあり、心を惹かれる。

次いで1587年(天正15年)、忠興が九州征伐に従軍の為、不在の間に大坂の教会を訪れ、また侍女を通じて教理を学び続け、ガラシャの教名で侍女から受洗した。

その後、邸内でキリシタンの信仰を深めたが、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いにおいて夫忠興は徳川方に付いたので、ガラシャは豊臣方より人質として大坂入城を強要され、大坂玉造の細川邸において石田勢に囲まれる間、家臣の手で自らの命を絶った(7月16日)。

 

 

 

 

 

松の丸殿

 

 

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松の丸殿とは、豊臣秀吉の側室の京極殿。

豊臣大名の京極高次の妹で名は龍子。

武田元明室であったが、夫は山崎の戦い後、秀吉に殺された。

秀吉の側室としては1590年(天正18年)、小田原攻めの時、「佐々木京極様」として初出する。

1594年(文禄3年)、大坂城西丸に住み、西丸殿、伏見城に移ってからは松丸殿と呼ばれた。

秀吉の寵愛を受け淀殿に次ぐ権勢を誇った。

秀吉死後は兄の高次のもとで生活し、関ヶ原の戦い以後は京に住んだ。

1597年(慶長2年)、山城の誓願寺京都市中京区)を再興。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

松の丸殿は、マイナーかもしれませんが、秀吉のもとで権力を持っていたようですね。

京極高次の周りの女性は、意外と歴史の表舞台に登場していますね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!