こんにちは!
今日は、大坂五人衆について紹介したいと思います!
大坂五人衆とは、慶長19年(1614年)と慶長20年(1615年)の大坂の陣の際に豊臣方(大坂方)の中心戦力となった5人のことです。
大坂五人衆に選ばれたのは、
の5人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
長宗我部盛親とは、織豊〜江戸時代前期の武将。
天正3年生まれ。
長宗我部元親の4男。
慶長4年、家督を継ぐ。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し、徳川家康に土佐(高知県)の領地を没収された。
夏の陣で敗れて捕らえられ、慶長20年5月15日、京都六条河原で斬られた。
41歳。
通称は右衛門太郎、新右衛門。
真田信繁とは、織豊〜江戸時代前期の武将。
永禄10年生まれ。
真田昌幸の次男。
関ヶ原の戦いに際しては西軍に属し、父と共に居城の信濃(長野県)上田城で徳川秀忠軍を阻止、敗戦後、紀伊九度山(和歌山県)に蟄居した。
慶長19年わ大坂冬の陣では、大坂城外に出城真田丸を作り、徳川方を苦しめたが、20年5月7日、夏の陣で討死にした。
49歳。
幼名は源次郎。
名は幸村とも言うが、幸村名の確実な史料は無い。
関ヶ原の戦いで西軍に属し、敗れて父と共に土佐高知藩主山内一豊に預けられる。
慶長19年、子の勝家と脱走して大坂城に入り、20年5月8日、夏の陣で落城の時に自殺。
初名は吉政。
明石全登とは、織豊〜江戸時代前期の武将。
宇喜多秀家に仕え、関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ、筑前(福岡県)秋月に住んだ。
大坂の陣では豊臣秀頼の招きに応じ、真田幸村らと活躍したが、慶長20年(1615年)、大坂落城の際に死んだとも、逃亡して元和4年に病死したともいう。
名は守重。
号は全薑。
掃部とも。
洗礼名はジョアン。
後藤基次とは、織豊〜江戸時代前期の武将。
永禄3年生まれ。
後藤基国の子。
黒田孝高、長政に仕える。
豊臣秀吉の九州攻めや朝鮮出兵、またら関ヶ原の戦いで活躍したが、後に長政と不和になり各地を流浪。
慶長19年、豊臣秀頼に招かれて大坂城に入り、大坂夏の陣で20年5月6日、戦死した。
56歳。
通称は又兵衛。
如何でしたか?
しかし、それまでの経緯は、全く違っており、それぞれの人物を主人公にした物語も面白いかもしれないですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!