こんにちは!
今日は、設計者による日本三名城について紹介したいと思います!
設計者による日本三名城に選ばれたのは、
熊本城
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
ここは元は那古屋、那古野とも書き、今川氏が大永年間(1521~1528年)に那古野城を築いたが、天文4年(1535年)、織田氏に占拠されて後に廃城となった。
その後、徳川家康が慶長 14年(1609年)、豊臣氏恩顧の西国大名に命じ築城し、以来尾張徳川家の居城となった。
城郭建築最盛期の粋で、本丸を北寄り中央に、その西に御深井丸と西の丸、東南に二の丸と三の丸を配した典型的な平城。
本丸の5層の大天守閣は小天守と橋台で連結し、その大棟の金の鯱は有名。
天守閣は第2次世界大戦中、米軍機爆撃で焼失したが、1959年、鉄筋コンクリートで再建された。
2つの2層の隅櫓、清洲城から移された3層の乾櫓と本丸殿の障壁画は戦災を免れ現存している。
大阪城とは、金城、錦城とも言い、明治以前は大坂城とも書かれていた。
初めこの地には石山本願寺があったが、天正8年(1580年)8月、11年余りに渡る織田信長との対戦の後、一向一揆は信長に降った。
その際火災が起こり、全伽藍は灰燼に帰した。
信長の死後、豊臣秀吉は天下統一の本拠として、この地に新しい形式の城と町作りを目指し、同 11年、浅野長政、増田長盛を工事奉行に、山村正清を大工棟梁にして築城工事を起こした。
築城にあたっては、関西三十余国の大名に命じて、日平均数万人の人足を動員し、3年を費やして同 13年に完成した。
本丸、二の丸、三の丸の石垣は3里8町(12km)もの長さであった。
石垣は切合わせという手法で築かれ、幾里もある周囲の石垣が、全部根本で1つに固められているのがこの城の特徴である。
天守閣は、内部は金箔で飾られ、軒瓦には全て金を張り、秀吉の桐紋が輝き、2層以下は塗籠め、5層は回廊、高欄を回し、高欄の上に鶴、下に虎の純金の彫刻をはめ、切妻の金具は全て黄金であったと言う。
現在の大阪城址は当時の東の丸、西の丸、三の丸にあたる。
秀吉の死後、慶長3年(1598年)、秀頼が伏見城から移り増築したが、同 19年、大坂冬の陣で外郭が壊され、外堀が埋められ、翌元和1年(1615年)、夏の陣で落城の際炎上した。
その後、松平忠明が配されて入城しさらに同5年、江戸幕府の直轄領とし、大坂城代に内藤信正を任じ、同6年、西国、北国の大名に命じて城の修築を行わせた。
その後、火災の度に修復を重ね、安政5年(1858年)の修理に際しては、天守の櫓を残して全て再建されたというが、明治1年(1868年)、失火によってその大部分が焼失した。
現在の天守閣は、1931年、大阪市が建造したもので、鉄筋コンクリート建築である。
熊本城
銀杏城とも言う。
室町時代中期に菊池氏の一族出田氏が千葉城を築城し、後に鹿子木親員が改築、隈本城と改称した。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐後、佐々成政が入城したが、翌 16年、成政の死後、加藤清正が入城した。
慶長6年(1601年)、清正は大規模な築城工事を起こし、同 12年に竣工したと言われ、同時に熊本城と改称した。
工事の監督には飯田覚兵衛、森本儀太夫があたり、城の全容は、7層の一ノ天守閣をはじめ、二ノ天守閣、櫓 49、櫓門 18、城門 29、これを擁するに、坪井川を内堀とし、白川と井芹川を外堀とする周囲 9kmに及ぶ豪壮なものとなった。
銀杏城の名は清正が築城記念に 2本のイチョウを本丸前に植えたのに由来する。
清正の子の加藤忠広が、寛永9年(1632年)、出羽国庄内に配流になると、細川忠利が城主となり、以後明治維新に至るまで細川氏の居城となった。
明治4年(1871年)、ここに鎮台が置かれ、1877年、西南戦争に際し、谷干城以下の籠城戦下において、宇土櫓を残し主要な建造物は焼失した。
第2次世界大戦後、天守閣その他が再建された。
2016年、熊本地震が発生し、建物の損壊や石垣の崩落等、大きな被害を受けた。
如何でしたか?
様々な三名城があるのですね。
名古屋城と大阪城は、鉄筋コンクリートで再建されているため、世界遺産への登録は厳しい感じですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!