こんにちは!
今日は、幕末の三剣士について紹介したいと思います!
幕末の三剣士とは、剣術の腕前が特に優れた幕末期の3人の剣士です。
後世の選で、天保の三剣豪とも言います。
幕末の三剣士に選ばれたのは、
男谷精一郎(おだにせいいちろう)
島田虎之助(しまだとらのすけ)
大石進(おおいしすすむ)
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
男谷精一郎
男谷精一郎とは、江戸末期の剣術家。
幼名新太郎、通称精一郎、名は信友、静斎と号した。
幼少より文武を好み、13歳の時、平山行蔵の兵原草廬の内弟子となり、実戦的武術に対する目を開かれ、1817年(文化14年)に直心影流の団野源之進(真帆斎)の門に入り、僅か4年で免許皆伝を得、更に宝蔵院槍術、吉田流弓術にも達し、1821年(文政4年)刊の「御府内兵法名家番付」には上々吉と評されて関脇に据えられ、将来を大いに嘱望された。
一方、養父の彦四郎(燕斎、表御祐筆)の薫陶を受けて、文学や書画を嗜み、その円満な人格と指導力により、小十人100俵高の小身から出世し、1831年(天保2年)、御書院番、1843年には御徒頭に進んだ。
ペリーの来航後、幕府の軍事力強化の為に講武場を設置することを建議し、1856年(安政3年)、講武所の開設とともに頭取並兼剣術師範役に起用され、1862年(文久2年)には従五位下・下総守に叙任され、翌年、講武所奉行並(3000石高)に昇任した。
なお、本所亀沢町の男谷道場からは島田虎之助、三橋虎蔵、横川七郎、榊原鍵吉らの有名な剣術家が輩出し、後世「剣聖」の名で敬慕されている。
島田虎之助
島田虎之助とは、幕末の剣術家。
名は直親、硯山(見山)と号した。
豊後中津藩の下級士族の島田市郎右衛門親房の四男で、幼少より剣を好んだと言う。
13歳の時、藩の剣術師範役、外他一刀流の堀次郎左衛門の元に入門。
ここで断然頭角を現し、1832年(天保3年)、北九州、翌年、南九州を歴遊、その後も近畿、山陽道に武者修行を続け、1837年の冬、江戸に向かった。
翌年春、直心影流男谷精一郎と巡り会い、その内弟子となって免許皆伝を許され、1840年の東北歴遊後、独立して、浅草新堀に道場を開き、直心影流島田派と称した。
その指導方針は剣心一致の精神を重んじ、門下に勝麟太郎、真角勝輔(筑前)らを出した。
大石進
大石進とは、江戸末期の剣術家。
大石神影流刀術を創始。
名は種次、通称は進、武楽と号した。
大石家は祖父の種芳の代から柳川藩の兵法師範(30石)を勤め、進は幼時より父の太郎兵衛種行に従って、タイ捨新陰流系の神影流と宝蔵院流の槍術を並修し、1825年(文政8年)、29歳の時、父の跡を継いで兵法師範となった。
6尺余の巨躯の持ち主で、従来の稽古法に飽き足らず、5尺3寸(1.6m)もある長竹刀や13本穂の面金、竹腹巻(胴)、半(短)小手等を考案し、諸手突き、片手突き、胴斬り等の試合技を工夫し、特に左片手突きを得意とした。
1832年(天保3年)、江戸に出て長竹刀旋風を巻き起こし、諸道場を撃破して一躍剣名を知られた。
7年後、再度出府したが、既に長竹刀に対する研究も進み、失意のうちに江戸を去ったと言う。
2代目進の種昌もまた父親に似て名剣士と謳われた。
如何でしたか?
剣豪と言うのは、何歳になってもかっこいいと思わせてくれる存在ですね。
大石進は、昔プレイしていたゲーム『剣豪3』に登場しており、ゲーム内でも突きを得意としていたので、非常に印象に残っています。
最後までお読み頂き有難う御座いました!