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文政の三蔵って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、文政の三蔵について紹介したいと思います!

 

文政の三蔵に選ばれたのは、

間宮林蔵(まみやりんぞう)

近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)

平山行蔵(ひらやまこうぞう)

の3人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

間宮林蔵

 

 

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間宮林蔵とは、江戸後期の探検・測量家。

間宮海峡の発見者。

生年には1775年(安永4年)説もある。

名は倫宗。

常陸国筑波郡上平柳村(現、茨城県つくばみらい市)の農業・箍屋に生まれる。

子供の頃より算術の才があったと言われる。

地理学者村上島之丞に規矩術(三角測量)を学び、1800年(寛政12年)、蝦夷地御用掛雇となる。

同年、箱館伊能忠敬に会い師事、後に天測術(緯度測定法)を学ぶ。

1806年(文化3年)、択捉を測量、1808年、調役下役元締松田伝十郎と樺太に派遣され、伝十郎は西海岸、林蔵は東海岸を調査。

翌1809年、アイヌの舟で海峡を渡り黒竜江下流地方を探検、樺太が島であることを確認した。

1812年、再度蝦夷地に渡り、伊能忠敬の未測量地域の海岸を実測、1821年(文政4年)に完成した忠敬の『大日本沿海輿地(よち)全図』には、林蔵の測量が生かされていると言われる。

1822年、江戸に帰り普請役、1824年、安房上総御備場掛手附を命ぜられ、東北地方の東海岸を巡視、以後、外国船渡来の風聞や密貿易調査の隠密活動に従事。

1828年、林蔵の届出により、シーボルトと幕府天文方高橋景保との交流が明らかになり、これがシーボルト事件の発端となるが、シーボルトの著作『日本』により間宮海峡は世界的に有名になる。

1834年天保5年)以降、林蔵は海防問題を通じて水戸藩接触藤田東湖らと交わったが、弘化元年2月26日に没する。

主な著書は『東韃紀行』(『東韃地方紀行』)、『銅柱余録』等。

 

 

 

 

 

近藤重蔵

 

 

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近藤重蔵とは、江戸後期の幕吏、北地探検家。

守重とも言う。

号は正斎、昇天道人。

明和8年、幕府与力の子として江戸に生まれる。

1798年(寛政10年)、幕府蝦夷地調査隊に加わり、択捉島に渡り、「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。

以後1808年(文化5年)、松前奉行付出役から書物奉行に転出するまで蝦夷地に関係し、千島方面を探検すること数回、択捉島への渡航路や同島の漁場開設等を指揮し、千島開拓の基礎を築いた。

また、西蝦夷地調査にも従事し、現在の札幌の地を蝦夷地警備の拠点とする意見を具申し、1500巻を下らないという書物を著している。

長男富蔵の殺傷事件の為、大溝藩に預けられ、文政12年6月9日没した。

 

 

 

 

 

平山行蔵

 

 

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平山行蔵とは、

江戸後期の兵学者、武術家。

名は潜、字は子龍。

兵原、兵僊、運籌真人、練武堂等と号した。

江戸四谷の伊賀組同心の家に生まれ、少年時代より文武両道に励み、武芸十八般に通じていたが、特に兵学(長沼流)と剣術(心貫流)を得意とした。

1793年(寛政5年)、35歳の時、昌平坂学問所に入り、聖堂出役・同御普請役見習に任用されたが、これに飽き足らず致仕し、以後自宅に設けた文武道場「兵原草廬」で剣術(忠孝真貫流、後に講武実用流と改称)、兵学儒学を講じた。

常在戦場を実践して玄米を常食とし、実戦実用の武術を鼓吹した。

1807年(文化4年)、北辺にロシア人が出没すると、海防に強い関心を示し、幕府に上書して、自ら蝦夷地に渡航し、その南下を防止することを願い出ている。

健筆家で、著書には『剣説』『剣徴』『孫子衍義』『海防問答』等、500巻を数える。

門下には下斗米秀之進(相馬大作)、妻木弁之進、勝小吉(海舟の父)らがいる。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

3人とも蝦夷に関わりのある人物のようですね。

また、平山行蔵の門下に勝海舟の父である勝子吉がいるのも面白いですね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!