こんにちは!
今日は、黄檗の三筆について紹介したいと思います!
黄檗の三筆に選ばれたのは、
木庵性瑫(もくあんしょうとう)
即非如一(そくひにょいつ)
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
隠元隆琦
俗姓は林、諱は曾炳、子房と号した。
家は貧しく農耕、木樵を業としているうちに若くして母を失った。
29歳で地元の黄檗山萬福寺の鑑源興寿について出家、各地を修行行脚の後、臨済宗を学び、萬福寺住職の費隠通容の跡を継いで臨済禅の宣揚に努めた。
承応3年(1654年)、63歳で長崎の興福寺住持逸然性融の招きにより来朝、初め長崎興福寺、更に崇福寺を経て、明暦1年(1655年)、摂津国富田の普門寺に入り、万治1年(1658年)には江戸で将軍徳川家綱に謁見した。
京都でも後水尾天皇の母、中和門院に仕えた文英尼の帰依を受け、文英尼を通じて、天皇はじめ公家の信望を得た。
万治2年(1659年)には後水尾天皇より宇治に地を賜り、徳川家綱の上旨もあって寛文1年(1661年)、黄檗山萬福寺を創建した。
後に住持の席を木庵性瑫に譲り、晩年を寺内の松隠堂で送った。
82歳で示寂。
隠元の来日によって様々な中国文化が伝えられ、絵画、書、彫刻等の美術は日本に大きな影響を与えた。
また、隠元豆、西瓜、孟宗竹(筍)といった食材、及びそれらを使用した精進料理の普茶料理、木魚等の楽器も齎された。
木庵性瑫
木庵性瑫とは、中国、清初に渡来した黄檗宗の僧。
俗姓は呉。
諡は慧明国師。
明暦1年(1655年)、師の隠元隆琦の招きに応じ、即非如一と共に来朝。
隠元の後を受けて、寛文4年(1664年)、宇治の黄檗山萬福寺の第2代住持となった。
寛文10年(1670年)には江戸の瑞聖寺の開山となった他、二十余寺を創建、近世の禅林に大きな影響を与えた。
書を良くし、隠元隆琦、即非如一と並んで黄檗の三筆と呼ばれ、江戸時代における唐様の隆盛に貢献した。
絵画にも優れ、『布袋蘭竹水仙菊図』(1664年、三幅対、萬福寺)等を残した。
即非如一とは、江戸時代前期に来朝した中国、明の黄檗僧、書家。
俗姓は林。
師の隠元隆琦の招きに応じて明暦3年(1657年)に来朝。
長崎の崇福寺、宇治の萬福寺、豊前の福聚寺等を拠点に黄檗宗の教化に努めた。
傍ら書を持って世に聞こえ、隠元隆琦、木庵性瑫と共に「黄檗の三筆」と称され、江戸時代の唐様書道界に貢献した。
絵も巧みで、崇福寺蔵『牧牛図』、萬福寺塔頭萬寿院蔵『羅漢図』等の作品があり、また著述に『語録』25巻、『仏祖道影賛』1冊がある。
如何でしたか?
隠元隆琦については、日本史で学びましたが、その後継者については全く知らなかったので、勉強になりました。
最後までお読み頂き有難う御座いました!