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日本三大茶道流派(三千家)って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、日本三大茶道流派(三千家)について紹介したいと思います!

 

日本三大茶道流派(三千家)に選ばれたのは、

表千家

裏千家

武者小路千家

の3つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

表千家

 

 

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表千家とは、千利休を祖とする茶道の流派の1つ。

裏千家武者小路千家とともに三千家と呼ばれている。

「不審庵」の名で通称される。

1591年(天正19年)、利休切腹の後、千家は断絶し、長男の眠翁道安は飛騨(岐阜県)か阿波(徳島県)に匿われたと言われている。

一方、養嗣子の少庵宗淳は、利休の娘亀女と結婚して子をもうけていたが、母宗恩が利休の後妻となるに及んで、夫婦共々千家に入った。

しかし、利休切腹と同時に会津若松蒲生氏郷に預けられた。

その後数年を経て、秀吉より千家再興が許され、京都に戻ってきた少庵は本法寺前の屋敷に落ち着き、千家2世を継承した。

少庵はここに色付九間之書院残月亭と不審庵の茶席を建てた。

不審庵とは利休の別号であるが、少庵もこの号を名乗っていたと思われる。

しかし、少庵は間もなく子の宗旦に千家を譲り、洛西西芳寺の湘南亭に隠棲したと伝えるが確証は得難い。

千家3世を継いだ宗旦は、10代の半ばには長男宗拙と次男一翁宗守の2人をもうけていたが、その後、後水尾院の中宮東福門院の女房であった宗見を後妻として迎え、三男江岑宗左、久田宗利の妻となったくれ女、そして四男仙叟宗室をもうけている。

かくして宗旦が71歳になった1648年(慶安1年)に、不審庵を江岑に譲り、同所の北に今日庵を建てて末子仙叟と共に移り住んだ。

その後、次男宗守が官休庵を建て、千家は3家に分かれるようになったのである。

不審庵を譲られた江岑宗左は表千家4世となり、堪笑軒、逢源斎と号した。

それより以前1642年(寛永19年)には、紀州徳川家に仕え、茶道役となっている。

江岑は藩主より系譜や由緒書を求められ、『千家由緒書』を献上している。

また、父宗旦の説話を集めた『江岑夏書』を1663年(寛文3年)に書き終えている。

5世随流斎宗佐は、宗旦の娘くれと久田宗利との間に生まれたが、寛文の初め頃表千家に迎えられ、宗巴と称し、良休と号している。

6世覚々斎原叟宗左は、久田宗全の子として生まれたが、12歳の頃、随流斎の養子となり、表千家を継いだ。

しかし、若くして養父を亡くした為、80歳で健在であった叔父藤村庸軒の薫陶を受け、父祖以来の紀州家に仕えた。

藩主頼方は侘び茶を好んで原叟を師として学び、やがて吉宗と改め8代将軍となってからも、原叟が江戸へ下ったおりに唐津茶碗を与える程であった。

この茶碗は桑原茶碗と言い、表千家の家宝となっている。

原叟は内室秋との間に3子をもうけており、長子如心斎表千家を継ぎ、次男宗乾と三男一燈は裏千家の養子となっている。

門下に江州(滋賀県彦根の町田秋波、芸州侯の茶道役三谷宗鎮、堀内仙鶴、松尾宗二、伊丹宗朝等がある。

7世如心斎宗左は天然とも別号する。

如心の斎号は紀州侯より賜ったものである。

如心は当時の茶の湯に新風を入れる為、弟の一燈宗室をはじめ、経済的援助を受けていた三井八郎右衛門、川上不白大徳寺の無学和尚、塗師中村宗哲、堀内宗心等と協議して七事式を制定した。

8世啐啄斎宗左の時に、天明の大火によって建物の全てを焼失したが、その年のうちに再興し、利休二百回忌の茶会を催している。

以後、9世了々斎宗左、10世吸江斎宗左、11世碌々斎宗左、12世惺斎宗左、13世即中斎宗左と続き、現在而妙斎宗左が京都市上京区の不審庵で14世家元を継承している。

 

 

 

 

 

裏千家

 

 

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裏千家とは、千利休を祖とする茶道の流派の1つ。

表千家武者小路千家とともに三千家と呼ばれている。

今日庵」の名で通称される。

1591年(天正19年)利休切腹の後、養嗣子の少庵宗淳が2世となったが、間もなく子の宗旦に千家を譲って隠棲した。

宗旦は幼くして大徳寺に入り、春屋宗園のもとに喝食として侍していたが、千家の再興が許されるや還俗して、少庵と共に利休遺跡を守った。

宗旦は若くして長男宗拙、次男宗守をもうけているが、父少庵が遠行したころに宗見を後妻として迎え、江岑宗左、くれ、仙叟宗室の3子をもうけている。

その後、わび宗旦の名があがるとともに、近衛信尋烏丸光広本阿弥光悦らと親交し、後水尾天皇中宮東福門院の知遇を受け、更に宗左は紀州徳川家、宗室は加賀前田家に仕えることになった。

しかし、宗旦自身は周囲の勧めを一切断って、大名に仕えることなく一人孤高を守った。

「乞食宗旦」と称されるのはその為である。

だがその間に、宗旦四天王と言われる山田宗徧、藤村庸軒、杉木普斎、三宅亡羊らの高弟を育てている。

その後71歳になった時に、不審庵を宗左に譲り、末子の仙叟宗室とともに、同所の北裏に建てた今日庵寒雲亭に移り住んでいる(このことが後年裏千家と俗称されることになった)。

更に数年後には又隠を建てたが、これらを仙叟に譲って81歳で他界した。

ここに江岑宗左の「不審庵」(表千家)、仙叟宗室の「今日庵」(裏千家)、後に一翁宗守の建てた「官休庵」(武者小路千家)がともに独立し、三千家が成立したのである。

4世仙叟宗室は、初め医師を志し、野間玄琢について医学を修業、玄室と称したが、師の没後、茶道に専念するようになった。

因みに玄室の名は家元を継承する前か、隠居後に用いられ、仙叟以後、家元を継承してからは宗室を襲名している。

仙叟は加賀藩主前田利常に仕え、茶道茶具奉行となっている。

また、その間に陶工長左衛門に大樋焼を、宮崎寒雉に釜を作らせている。

5世常叟宗室は、仙叟他界の跡を継いで加賀藩の茶道茶具奉行となったが、後に伊予松山藩久松家の茶道奉行として知行を与えられている。

以後、裏千家では幕末に至るまで両藩に仕えた。

しかしながら、常叟は32歳の若さで生涯を終えている。

不休斎の号がある。

6世六閑斎宗安は、常叟の長男として生まれたが、11歳で父を失った為、表千家の覚々斎、如心斎から茶道の薫陶を受け、特に如心斎とは兄弟以上に親交したと言われる。

六閑斎はまた伊藤東涯について儒学を学び、謡曲狂言、画、書等も巧みであった。

しかし、松山藩主久松侯に仕えて江戸に出府中、その屋敷内で33歳の生涯を終えている。

泰叟と別号する。

妹は後に剃髪して北野の尼寺西方寺に入り、祖仙尼と称して竺叟宗乾、一燈宗室の後見をなし、同寺の第30世住職となっている。

7世竺叟宗乾は、表千家6世原叟の次男として誕生したが、六閑斎に子がなかった為、養子として迎えられた。

加賀藩、伊予藩に奉行として出仕したが、25歳で没している。

最々斎と別号する。

8世一燈宗室は、兄竺叟の早世により、表千家から養子として迎えられた。

15歳で家元を継承し、長兄如心斎に薫陶を受け、ともに修行を重ねて七事式を制定した。

又玄斎、勿々軒の別号がある。

高弟の速水宗達備前池田侯に仕え、後に速水流を起こしている。

以後、9世石翁玄室、10世認得斎宗室と続いた。

11世玄々斎宗室は、三河国奥殿領主大給松平乗友の子として生まれ、10歳で裏千家に養子として迎えられている。

利休二百五十回忌を機に、表門、咄々斎、大炉の間、抛筌斎、利休堂清寂院等を増築した。

不忘、虚白斎と号する。

12世又玅斎玄室、13世円能斎宗室、14世淡々斎宗室、15世鵬雲斎宗室を経て、現在16世坐忘斎宗室が家元(京都市上京区小川通寺之内上ル)を継承している。

 

 

 

 

 

武者小路千家

 

 

武者小路千家とは、茶道の流派。

表千家裏千家とともに三千家の1つ。

千宗旦の二男千(一翁)宗守が官休庵を起こしたことによって始まる。

1世一翁宗守は早くに家を出て、塗師吉文字屋与三右衛門の養子となり、甚右衛門を名乗って家業を守っていた。

号は参禅の師大徳寺芳春院の玉舟和尚より授かっている。

後年、家業を娘婿の中村宗哲に譲り、武者小路小川(京都市上京区)に官休庵を建てて千家に復するとともに、高松藩松平家の茶頭役としても出仕した。

2世文叔宗守は一翁の子。

18歳で家業を継ぐ。

近衛予楽院の「茶杓箪笥」に文叔の極め(鑑定)が数本あるところから、近衛家への出入りが考えられる。

高松藩へも出仕し、以後同家の代々は高松藩への出仕を続ける。

3世真伯宗守は文叔の子で、静々斎、静斎と称する。

50歳で50個の手造り茶碗を作ったり、伝来の利休七種茶碗「木守」を写して、本歌を松平侯へ献上している。

4世堅叟宗守は九条家の家臣の出で、真伯の養子。

直斎と称す。

邸内に「一方庵」「弘道庵」の茶席を好む。

5世休翁宗守は川越兵庫頭の子で堅叟の養子、一啜斎と号す。

6世仁翁宗守は裏千家認得斎宗室の三男、好々斎と称した。

7世以心斎宗守は表千家吸江斎宗左の弟。

全道と号す。

8世一指斎宗守は宗左の二男。

一叟と号す。

9世聴松宗守は久田宗悦の二男。

愈好斎と号す。

10世有隣斎宗守は愈好斎の養子。

徳翁と号す。

11世不徹斎宗守は当代。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

茶道の流派にも色々あるようですね。

表千家裏千家は、千利休が祖となっているようですね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!