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日本三大門って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、日本三大門について紹介したいと思います!

 

日本三大門に選ばれたのは、

南禅寺京都府

東福寺京都府

久遠寺山梨県

の3つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

南禅寺

 

 

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南禅寺とは、

京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派大本山

正式には瑞竜山大平興国南禅禅寺と言い、京都五山の首位に立つ禅寺である。

1291年(正応4年)、亀山上皇離宮を改めて建てた寺で、初め竜安山禅林禅寺と称していたが、南禅寺とするにあたって東福寺開山円爾弁円の法を継いだ無関普門(仏心禅師、大明国師)を招いて開山とした。

門下の規庵祖円が第2世となってこの寺の基礎を築いた。

1299年(正安1年)、亀山上皇の勅命で諸山の禅僧のうちで特に優れた者を住持させることになってからは、第3世一山一寧、第5世約翁徳倹、第9世夢窓疎石、第15世虎関師錬、第39世春屋妙葩、第44世義堂周信等の名僧が入山した。

南禅寺の社会的な地位は極めて高く、1335年(建武2年)に京都五山の第一とされ、1383年(弘和3年・永徳3年)に足利義満が京都鎌倉五山十刹の制度を作った際には、天下第一位として五山の上に置かれた。

歴代の朝廷や足利、豊臣、徳川諸家の保護を受け、江戸時代には第270世以心崇伝が幕府の信任を受けて寺社関係の政策を司り、1615年(元和1年)、寺社奉行の前身である僧録司となった。

諸堂伽藍は1467年(応仁1年)までに数度の火災で焼失し、山門(三門)、法堂、方丈、勅使門等、現存の建物は安土桃山時代以後の建造物である。

山門(国重要文化財)は1628年(寛永5年)、大坂夏の陣に倒れた将士の菩提を弔う為、藤堂高虎によって再建されたもので、天下竜門と言い、上層の楼を五鳳楼と呼ぶ。

また、歌舞伎の『楼門五三桐』の石川五右衛門の伝説で有名。

方丈(国宝)は大方丈と小方丈に分かれている。

大方丈は1611年(慶長16年)、後陽成天皇より下賜された旧清涼殿(一説には正親町院御所対面所)を移建したもので、各室には狩野元信・永徳筆と伝える豪華な桃山式の襖絵がある。

小方丈は旧伏見城の遺構で、狩野探幽筆と伝える襖絵『水呑の虎の図』は名高い。

大方丈南面の庭園は慶長年間(1596~1615年)、小堀遠州作と伝える禅院式枯山水庭園で、巨石の姿から俗に「虎の子渡しの庭」と呼ばれる。

北側には宗徧流の茶室不識庵があり、露地を囲む竹垣は南禅寺垣と言われる。

寺宝には、亀山天皇宸翰禅林寺御起願文案(国宝)をはじめ、開山の『頂相大明国師像』、『釈迦十六善神画像』、『薬山李翺問答図』、『江山漁舟図』(蒋三松筆)、『達磨像』(祥啓筆)等の絵画、彫刻では木造聖観音立像、工芸では鎌倉彫牡丹模様香盒(以上、重文)等がある。

塔頭は現在、金地院、天授庵、帰雲院、光雲寺、聴松院、真乗院、高徳庵法皇寺、慈氏院、正因庵、正的院、南陽院の12院がある。

金地院には『渓陰小築図』『秋景冬景山水図』二幅(ともに国宝)等や、小堀遠州が崇伝の依頼を受けて設計した茶室八窓席(重文)がある。

また、別院南禅院は離宮禅林寺殿の「上の宮」遺跡で、南禅寺発祥の地と言われている。

 

 

 

 

 

東福寺

 

 

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東福寺とは、京都市東山区本町にある臨済宗東福寺派大本山

山号は慧日山。

本尊は釈迦牟尼仏

1236年(嘉禎2年)、九条道家の発願により法性寺跡に一堂が創建され、宋から帰国した聖一国師円爾弁円を開山に迎え、天台・真言・禅の三宗兼学の道場とした。

七堂伽藍の完成は道家死後3年経った1255年(建長7年)で、東福寺の名は東大寺興福寺から1字ずつを採った。

後に京都五山の第四位に列せられ栄えたが、1319年(元応1年)、1334年(建武1年)、1336年(延元1年・建武3年)と相次ぐ火災によって焼亡した。

1347年(正平2年・貞和3年)、一条経通が仏殿を再興し、以後足利義持豊臣秀吉徳川家康らによって諸堂が重修された。

1881年明治14年)、方丈から失火して仏殿、法堂等を焼失、1890年、再建に着手し、1934年(昭和9年)4月に至って漸くその落成を見た。

現在、禅宗寺院最古の三門(国宝、室町時代)をはじめ、月下門(1264~1275年)、禅堂(1347年)、仁王門(1391年)、浴室・東司(ともに室町時代)等の建築物(以上、国重要文化財)があり、また無準師範画像(南宋代)や宋版『太平御覧』103冊、宋刊本『義楚』6帖12冊、無準師範墨蹟、禅院額字・牌字(以上、国宝)の他、非常に多くの文化財を所蔵する。

塔頭は中古以来53院あったが、明治以後合併され、現在は竜吟庵や栗棘庵等、25院が残る。

寺域広大で、禅堂・経蔵と開山堂を繋ぐ通天橋は古来紅葉の名所として有名。

 

 

 

 

 

久遠寺

 

 

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久遠寺とは、山梨県南巨摩郡身延町にある日蓮宗総本山。

通称、身延山

日蓮佐渡流罪赦免後も蒙古襲来を予言し幕府を諫めたが、三度目の諫暁の後、1274年(文永11年)、甲州波木井の地頭波木井六郎実長の迎えを受けて、6月17日、身延山西谷(御草庵跡の地)へ入ったのに始まる。

身延は、釈迦が『法華経』を説いた霊鷲山に似、天台大師の修法の地天台山に異ならないと称し、53歳より9年間滞在した。

その間、多くの弟子が訪れ、7年後に10間四面の本堂が建てられた。

日蓮はここで『顕立正意鈔』『撰時鈔』『報恩鈔』『教行証御事』『諫暁八幡鈔』『三大秘法稟承事』等、多くの著作をなした。

61歳の時、身延を出、武蔵国(東京都)池上宗仲の邸で没したが、遺言により遺骨は身延へ埋葬され、六老僧が1か月ごとの輪番制で廟を守った。

後に日向が寺主となり、第二祖とされた。

1474年(文明6年)、第十一祖日朝が現在の地に大伽藍を造営した。

戦国時代は、武田氏の帰依を得、江戸時代には豊臣秀吉の姉日秀尼が堂宇を増修、徳川家康・秀忠が判物を与えた。

徳川家により10万石を寄進され、上人号を勅許された。

現在、本堂、祖師堂、御真骨堂、三門、思親閣(奥の院)、宝物館他、多くの建物を有し、寺宝に徽宗筆絹本着色「夏景山水図」(国宝)、鎌倉古写本『本朝文粋』『宋版礼記正義』『釈迦八相図』(いずれも国重要文化財)等がある。

なお、七面山は日朗の登山開闢の霊地。

開闢会(6月15~17日)、御会式(10月11~13日)等の行事を行う。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

2つは京都ですが、1つは山梨ですね。

久遠寺は、歴史の教科書でも出てきますが、少々マイナーですね。

門が有名ということで、1度見に行ってみたいですね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!