こんにちは!
今日は、京都三大釈迦堂について紹介したいと思います!
京都三大釈迦堂に選ばれたのは、
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
新西国三十三所第16番札所。
山号は瑞応山。
本尊は釈迦如来。
一般には千本釈迦堂或いは北野釈迦堂と呼ばれる。
鎌倉初期、1221年(承久3年)、藤原秀衡の孫にあたる義空によって開創された。
その後、1223年(貞応2年)に義空は大堂の建立を発願し、摂津(兵庫県)尼崎の材木商の寄進を受けて1227年(安貞1年)に完成。
大恩教主釈迦如来へ報恩謝徳の為、釈迦如来を本尊として祀り、寺号を大報恩寺とし、倶舎・天台・真言の三宗兼学とされた。
室町時代ころの寺領は、山城・播磨・丹波・河内等、畿内諸国に及ぶ。
江戸時代には朱印寺領100石を受けている。
応仁の乱等、度々の火災で諸堂を焼失したが、釈迦堂(本堂)のみは創建当時のままで、京都市内最古の木造建築として、厨子、棟木、棟札とともに国宝。
本尊は快慶の弟子行快の作で、快慶晩年の作釈迦十大弟子像とともに国の重要文化財。
また、定慶作の木造六観音像6躯(付像内納入経8巻)、銅造誕生仏立像等の国の重要文化財を蔵する。
おかめ節分会や、中風よけ・諸病封じを祈願する12月7、8日の成道会大根焚きは有名。
清凉寺とは、京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町にある浄土宗の寺。
五台山と号する。
通称を嵯峨の釈迦堂と言う。
本尊は釈迦如来。
もとは棲霞寺境内の一隅に建てられた釈迦堂であった。
棲霞寺は嵯峨天皇の第12皇子、左大臣源融の山荘、棲霞館に建てられた阿弥陀堂を創始とする。
融は熱心な阿弥陀信仰者で、阿弥陀像の造立を発願したが果たし得ずに没した為、遺族が志を継ぎ、阿弥陀三尊像を完成し、融の一周忌、896年(寛平8年)に阿弥陀堂を建立して安置し、法会を行い、棲霞寺が誕生した。
一方、奝然は983年(永観1年)、五台山巡礼の為、中国に渡り、986年(寛和2年)、優填王所造栴檀釈迦像の模刻、十六羅漢像、宋版大蔵経を持って帰朝した。
翌年、将来した釈迦像を本尊として、愛宕山に五台山清凉寺の建立を出願、990年(正暦1年)に戒壇の併設を出願した。
しかし、叡山の反対により許可にならず、東大寺別当に任じられて京都を離れ、1016年(長和5年)、志を果たさず没した。
弟子盛算は愛宕山麓の棲霞寺内に清凉寺を建立し、師の遺志を実現した。
現在の釈迦堂は1703年(元禄16年)、完成のもの。
もと真言宗大覚寺派に属していたが、室町時代には融通念仏の大道場となり、この頃から浄土宗に固まったと見られる。
現在、棲霞寺は境内の阿弥陀堂に名を残すのみである。
奝然将来の木造釈迦如来立像(国宝)は「生身の釈迦」と言われ、全国に数十躯の模刻があり、その信仰の大きさを物語っている。
その他、絹本着色十六羅漢像(国宝)、木造十大弟子像、紙本着色融通念仏縁起、紙本着色釈迦堂縁起等、多くの国重要文化財がある。
大念仏狂言(4月中旬の土・日曜日)、お松明式(3月15日)の行事は名高い。
百万遍の通称で知られる。
浄土宗大本山の1つで、長徳山功徳院と号する。
本尊は釈迦牟尼仏。
もと今出川北小路賀茂河原(現在の相国寺の地)にあり、上賀茂神社の神宮寺であったと言う。
法然(源空)が庵居して河原院神宮寺と称したが、法然の寂後、勢観房源智がこれを受け継ぎ、法然の御影堂を建立して知恩寺と名付けた。
1331年(元弘1年・元徳3年)、疫病が流行した時、第8世善阿空円が後醍醐天皇の勅命を受け、宮中で百万遍念仏を修した所、見事効験あって疫病が止んだので、以後「百万遍」の号を賜り勅願所となった。
1382年(永徳2年)、足利義満が相国寺を建立するに及んで一条通油小路に移転したが、その後、度々戦火に遭い、1662年(寛文2年)、現在地に移り、4代将軍徳川家綱の外護で復興した。
中国元代の顔輝筆絹本着色『蝦蟇鉄拐図』(国重要文化財)等、什宝多く、本堂一周の大念珠もある。
如何でしたか?
京都にもまだまだ知らないお寺が沢山ありますね。
また京都に行ってみたいものです。
最後までお読み頂き有難う御座いました!