こんにちは!
今日は、小田原三茶人について紹介したいと思います!
小田原三茶人とは、小田原で近代茶道を究めた3人です。
小田原三茶人に選ばれたのは、
益田孝(ますだたかし)
野崎廣太(のざきこうた)
松永安左エ門(まつながやすざえもん)
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
益田孝
益田孝とは、は日本の実業家。
草創期の日本経済を動かし、三井財閥を支えた。
明治維新後、世界初の総合商社・三井物産の設立に関わり、日本経済新聞の前身である中外物価新報を創刊した。
茶人としても高名で鈍翁と号し、「千利休以来の大茶人」と称された。
男爵。
三井合名理事長。
明治中期頃から茶道をたしなみ、明治39年(1906年)には小田原市の板橋に別邸掃雲台を造営し数多くの茶席を建てた。
このことが後に近代茶人らが小田原・箱根へ集まる初めとなっている。
近代小田原三茶人の1人としても知られる。
趣味の茶器収集も有名であった。
「鈍翁」の号は、彼が収集した茶器の1つ「鈍太郎」(表千家6世家元・原叟宗左の製作)に由来する。
野崎廣太
野崎廣太とは、日本の実業家。
岡山市北区平野出身。
幼名・兵三。
諱・通礼。
筆名・汲古庵主。
号・幻庵。
茶道への造詣が深く、1906年から1927年まで茶会の記事を新聞に書き続け、『茶会漫録』12冊を発刊。
茶道に影響を与えた。
近代小田原三茶人の1人。
松永安左エ門とは、明治末期から昭和にかけて長く日本の電力業界において活動した実業家である。
「安左エ門」の名は父の名を襲名した(3代目安左エ門)もので、幼名は亀之助。
石炭商等の事業を手掛けた後、明治末期から九州で電気事業の経営に関わり、1922年(大正11年)からは20年に渡り大手電力会社東邦電力を主宰した。
太平洋戦争下では一旦実業界から退くも、戦後の占領下で電気事業再編成審議会会長として再起。
電気事業再編成を主導して九電力体制への再編を推進し、その強硬な姿勢から「電力の鬼」の異名をとった。
その後は電力中央研究所理事長に就任。
また、私設シンクタンク産業計画会議を主宰して日本の産業経済全体について政策提言を行い、政府の政策に大きな影響を与えた。
大正時代に1期のみ衆議院議員を務めた経歴も持つ。
美術品収集家、茶人としても知られ、「耳庵」の号を持つ近代小田原三茶人の1人でもある。
中部電力第5代社長松永亀三郎は甥。
如何でしたか?
全員が実業家のようですね。
戦国時代は、武士が茶人として活躍していましたが、明治以降は実業家が茶人として活躍していたようですね。
益田孝は、大河ドラマ『青天を衝け』にも登場していましたね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!