こんにちは!
今日は、源氏三神社について紹介したいと思います!
源氏三神社とは、清和源氏と最も所縁のある3つの神社のことです。
源氏三神社に選ばれたのは、
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
旧社格は郷社。
平安時代の建立で清和源氏始祖の源経基を祭神とすることで知られる。
多田神社(兵庫県川西市)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の1つとされる。
桜や神龍池が有名で社殿等は京都市の指定有形文化財に指定されている。
社伝では、境内は源経基の邸宅「八条亭」の跡地であると言い、応和元年(961年)に経基が臨終の際に「死後は龍神となって邸内の池に住んで子孫の繁栄を祈るから、この地に葬るように」と遺言したと言う。
そして、応和3年(963年)9月に嫡子の満仲が現社地に経基の墓所を建立し、その前に社殿を造営したのが当社の創建であるとしている。
本殿後方に現在も残る石の基壇は、経基の廟であると伝わる。
源経基亡き後、当地は清和源氏発祥の地として摂津源氏、多田源氏によって伝領され、源頼政の時代に平清盛に譲られて一時は西八条第(邸宅)の一部となったが、経基の墓と神祠は残され、平家の没落後、その故地は源頼朝に与えられた。
鎌倉時代には、暗殺された源実朝の菩提を弔う為、妻の本覚尼がこの地に遍照心院(大通寺、通称は尼寺)を建立し、当社はその鎮守社とされたと言う。
その後は戦乱等により社殿を失い、経基の墓所だけが残されたとも伝える。
元禄13年(1700年)からは、江戸幕府により社殿の再興が進められた。
社の再建を悲願とした遍照心院の南谷上人が徳川光圀に働き掛け、清和源氏の宗家を自認する徳川将軍家を動かすに至ったからである。
社殿の再建は宝永4年(1707年)をもって完了し、その社殿が現在まで伝わっている。
また、大通寺は塔頭7か寺を数えた。
六孫王神社は六ノ宮権現とも呼ばれた。
元禄14年(1701年)には正一位の神階と権現号が授けられている。
その後は江戸幕府の滅亡とともに衰微し、また神仏分離により大通寺とも分離した。
大通寺は1911年(明治44年)にその境内地が国鉄東海道本線の鉄道用地となった為に境内地を売却し、移転を余儀なくされたが、1964年(昭和39年)、今度は当社境内が東海道新幹線の用地となった為、再び買収され狭くなってしまった。
近代社格制度では1873年(明治6年)8月、に村社に列し、1881年(明治14年)12月に郷社に昇格した。
六孫王神社(京都府京都市南区)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の1つ。
前身は「多田院法華三昧寺」と号した天台宗、後の真言律宗の寺院であり、境内は現在でも「多田院」の名称で国の史跡に指定されている。
初期清和源氏の本拠地であった旧摂津国多田に鎮座する源氏一門の祖廟であり「清和源氏発祥の地」とも呼ばれる。
天禄元年(970年)に清和源氏の祖・摂津守源満仲が住吉大神の御神託を受けて当地に居館を構え、満仲の末子源賢を開山として天台宗寺院・多田院鷹尾山法華三昧寺(通称多田院)が建立された。
その際に円融天皇より「此の城をもって禁裏守護職武門の棟梁万代の居城たるべし」との勅諚を賜ったとされる。
このことから当地は清和源氏発祥の地と呼ばれている。
以後、満仲は自らの武士団(後の多田院御家人)を率いてその館と多田院を中心に多田荘の開発に勤しんだ。
本尊の丈六釈迦如来像は満仲、文殊菩薩像は満仲の長男源頼光、普賢菩薩像は次男源頼親、四天王像は三男源頼信がそれぞれ願主となって作られたものである。
平安時代の長徳3年(997年)8月27日に満仲が没すると多田院に葬られ、新たに廟所と満仲像を祀る御影堂が建立された。
以後は清和源氏の祖廟とされたが、この地を代々相続した多田源氏の没落と続く源氏将軍家の断絶により次第に衰微していった。
鎌倉時代中期に鎌倉幕府執権・北条泰時が多田荘の地頭となると、以後は得宗家によって地頭職が相伝された。
そこで幕府は多田院社殿の大規模な復興を行うこととし、文永10年(1273年)に西大寺の忍性を造営奉行に任じて再興させた。
これにより多田院の宗旨は天台宗から真言律宗に転じ、やがては源頼光も祀るようになった。
幕府は正応6年(1293年)には摂津国内に棟別銭10文を課して多田院の修築費用に充てさせている。
正和5年(1316年)10月13日には多田院堂供養が行われ、渡辺氏、能勢氏、塩川氏等、50数名の多田院御家人が出席している。
明治時代になると政府による神仏分離令により、仏教寺院であった多田院は従来の源満仲・源頼光に源頼信・源頼義・源義家の河内源氏三代を合わせた五公を祀る神社に移行した。
その際、南大門にあった金剛力士像が1871年(明治4年)に満願寺に、境内の鐘楼は奈良県・西大寺に移される等している。
こうして当社は県社に列せられた。
旧社格は村社。
武家の棟梁・河内源氏の氏神であり、源義家(八幡太郎義家)が愛用したとされる黒韋威胴丸(重要文化財)や天光丸の太刀(重要美術品)等が伝わっている。
京都市の六孫王神社や川西市の多田神社と並ぶ源氏三神社の1つである壺井権現社がある。
一帯は河内源氏の本拠地で、寛仁4年(1020年)に源頼信が河内国国司に任じられて以降、頼信・頼義・義家の3代に渡って当地に居住し、河内源氏と呼ばれるようになった。
康平7年(1064年)5月15日、前九年の役に勝利して凱旋した源頼義が、河内源氏の氏寺・通法寺の北側で、現在地である河内国香呂峰の私邸の東側に社殿を造営し、河内源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請したのが当社の始まりである。
この時、地名を香呂峰から壺井と改め、壺井八幡宮を武家源氏棟梁の河内源氏の総氏神とした。
また、頼義は出家後に、当社の西側に化輪寺(花輪寺)を建立し、慈覚大師作の阿弥陀如来像を安置している。
社家の高木氏は、河内源氏・八幡太郎義家の六男(五男とする見方もある)・源義時(陸奥六郎義時)の子孫である。
その後、源頼義は、河内源氏の東国進出の拠点として、鎌倉にも石清水八幡宮を勧請した(鶴岡若宮、後の鶴岡八幡宮)。
天仁2年(1109年)、源義家の六男源義時が境内に摂社壺井権現社を創建し、河内源氏の崇廟とした。
頼義の5世孫である源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、河内源氏の総氏神は壺井八幡宮から鶴岡八幡宮に移り、壺井八幡宮は河内源氏の祖廟にして当地に土着した河内源氏である石川源氏の氏神となる。
南北朝時代から戦国時代にかけて度々兵火にかかり荒廃した。
現在の社殿は、元禄14年(1701年)、徳川綱吉の命により柳沢吉保が再建したものである。
明治時代には八幡神社と称し、近隣の神社が合祀された。
また、村社に列せられている。
如何でしたか?
全て近畿地方の神社ですね。
特に、兵庫県川西市や大阪府羽曳野市は中々行かない場所だと思いますので、これを機に行ってみては良いのではと思います。
最後までお読み頂き有難う御座いました!