こんにちは!
今日は、梨壺の五人について紹介したいと思います!
梨壺の五人とは、天暦5年(951年)、村上天皇の命により、平安御所七殿五舎の1つである昭陽舎に置かれた和歌所の寄人のことです。
梨壺の五人に選ばれたのは、
大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)
源順(みなもとのしたごう)
清原元輔(きよはらのもとすけ)
坂上望城(さかのうえのもちき)
紀時文(きのときぶみ)
の5人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
大中臣能宣とは、平安時代中期の神職、歌人。
延喜21年生まれ。
大中臣頼基の子。
大中臣輔親の父。
天禄3年、伊勢神宮祭主となる。
後に正四位下。
『拾遺和歌集』等に多くの和歌を残す。
正暦2年8月、死去。
71歳。
家集に『能宣集』。
源順
嵯峨源氏、源挙の子。
三十六歌仙の1人。
20代で日本初の百科辞典『倭名類聚抄』を作る。
天暦5年(951年)、梨壺の五人のうちに選ばれ、その中心人物として『後撰和歌集』編集、『万葉集』訓読にあたった。
官吏としては不遇で、晩年に能登守。
永観元年、死去。
73歳。
家集に『源順集』。
延喜8年生まれ。
清原深養父の孫。
清少納言の父。
肥後守。
三十六歌仙の1人。
天暦5年、撰和歌所寄人となり、梨壺の五人の1人として、『万葉集』訓釈や『後撰和歌集』の撰にあたる。
『拾遺和歌集』以下の勅撰集に107首入る。
永祚2年6月、死去。
83歳。
家集に『元輔集』。
坂上望城
少外記、大外記等を経て、天延3年(975年)、石見守。
天暦5年、撰和歌所に、所謂梨壺の五人の1人として選ばれ、『万葉集』を訓釈し、『後撰和歌集』を撰した。
名は茂樹とも書く。
紀時文
近江少掾等を経て、大膳大夫となる。
天暦5年(951年)、撰和歌所の寄人となり、梨壺の五人の1人として『万葉集』を訓釈し、『後撰和歌集』の撰集にあたる。
歌は『後拾遺和歌集』等の勅撰集に5首あるが、歌人としては「ただ父が子といふばかり」と評された。
没年は長徳2年(996年)か3年と言う。
如何でしたか?
日本史でも、文化史は中々覚えるのが大変なので、ここら辺は難しいかもしれないですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!