こんにちは!
今日は、神祇の四姓について紹介したいと思います!
神祇の四姓に選ばれたのは、
白川家
大中臣氏(おおなかとみうじ)
卜部氏(うらべうじ)
忌部氏(いんべうじ)
の4つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
白川家
白川家とは、花山天皇の皇孫である延信王が1025年(万寿2年)、源姓を賜り興した家。
王を称して世襲で神祇伯(神祇官長官)となり、伯家と呼ばれて明治維新まで続く。
後に伯爵になる。
室町期以来、卜部(吉田)家の唯一神道に押され、江戸時代も特に1665年(寛文5年)の幕府の諸社禰宜神主法度によって多数の地方神社は吉田家支配下になった。
しかし、後期には白川家も積極的に神社組織化を企図し、幕府も容認したので、白川家の配下神社は宝暦期(1751~1764年)の64社から文化期(1804~1818年)の292社に増えており(白川家「諸国神社附属帳」)、明治維新まで、各地で吉田家との配下神社の争奪が続けられた。
大中臣氏とは、神祇を司る古代貴族中臣氏の後裔。
『続日本紀』神護景雲3年(769年)6月19日条に、祝詞には大中臣と言っており、また中臣朝臣清麻呂は2度神祇官に任じられて良く仕えた、よって大中臣朝臣と賜姓せよとの詔があるのに始まる。
清麻呂の子孫がこれを継承する一方、『中臣氏系図』所引の「延喜本系」中臣許米条と大中臣伊度人条によると、515人が大中臣を賜っている。
卜部氏
卜部氏とは、卜占の術をもって神事に奉仕した古代氏族に発する氏。
中で、後に京都神楽岡吉田神社の預職となった卜部吉田家が宗教的権威の地位を得て有名となった。
古く祭祀を司る氏として中臣、斎部の2氏が知られていたが、律令制が整備され、神祇制度が定着するとともに、神祇官の長官神祇伯を世襲する王氏の白川家とこの卜部氏を加えて「神祇四姓」と称した。
鎌倉時代、その卜部氏に兼文、兼方(懐賢)らが出て、卜占よりも古典研究、古典伝承の氏として知られ、次第に神祇官内で勢力を持つようになった。
後に室町中期に兼倶が出て、その乱世たる時代的背景もあって神祇官の副官たる地位とは別に神祇長上或いは神祇管領長上と自称し、神祇伯の白川家とは別に全国の神社神職をその支配下に置くに至った。
卜部氏の始祖は天児屋命の12世孫大雷命で、元は中臣(藤原)と同族とその系譜にいうが、信憑性には問題がある。
その伝承によれば、仲哀天皇の時、卜部姓を賜り、その子真根子が三韓から帰朝するに際し壱岐島に留まって以後、累代、壱岐、対馬の島司となったと言う。
また、18世忍見宿禰は顕宗天皇の時、壱岐に祀る月読神を山背国(京都府)歌荒洲田に分祠、それが現在の松尾大社の摂社月読神社の起源と伝える。
平安末期、一族の兼親が吉田神社の預となってから後、その子孫が代々吉田神社預となり、またその弟の兼国が平野神社預となってより、その子孫がそれを継承、更に兼親の猶子兼季が梅宮社務となってより、その子孫がそれを継承、後にそれぞれ吉田、平野、梅宮を氏とした。
同族中に鎌倉末期に活躍した大僧正慈遍や『徒然草』の作者兼好等がいる。
また、兼倶が吉田神道を大成して後世の神道に大きな影響を与えた。
忌部氏とは、斎部氏とも記す。
中臣氏とともに朝廷の祭祀を担当した氏族名。
天太玉命を祖とし、本貫は大和国高市郡(現、奈良県橿原市忌部町付近)で、品部としての忌部を管掌した。
阿波・紀伊国の他にも分布する。
カバネ(姓)は古くは首で、680年(天武天皇9年)、連を、684年、宿禰を授けられ、803年(延暦22年)、斎部氏と改めた。
御殿の造営や祭祀具の調整、また班幣・神璽(鏡・剣)奉上等の実務、大殿祭・御門祭の祝詞(『延喜式』所収)申上を行った。
奈良時代、中臣氏と共に伊勢神宮への奉幣使に任命されたが、中臣氏の権勢に押され任命されなくなった。
如何でしたか?
中臣と卜部は、日本史でも登場しますね。
忌部は、名前だけくらいだったら、出てきているかもしれないですね。
以前にも四姓を紹介しましたが、他にもあるのですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!