こんにちは!
今日は、冷泉家の四祖について紹介したいと思います!
冷泉家の四祖に選ばれたのは、
藤原俊成(ふじわらのとしなり)
藤原定家(ふじわらのさだいえ)
藤原為家(ふじわらのためいえ)
冷泉為相(れいぜいためすけ)
の4人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
「しゅんぜい」とも読む。
俊忠の子。
定家の父。
幼い時、父と死別し、民部卿顕頼の養子となり、顕広と言った。
俊成と改名したのは、実家の御子左家に復帰した54歳の時である。
正三位皇太后宮大夫に至ったが、63歳のとき病により出家し、法名、釈阿。
和歌を藤原基俊に学び、崇徳上皇の『久安百首』(1150年)に加えられて、六条家の藤原清輔と対立関係にあったが、その死後、九条兼実家の和歌師範となり、宮廷和歌の指導者として君臨、後白河法皇の院宣を奉じて、文治4年(1188年)、『千載和歌集』を単独撰進。
『五社百首』(1190年)、『守覚法親王家五十首』(1197年)、『千五百番歌合』等で円熟した歌境を見せた。
『新古今集』に 72首入集。
歌風は温雅で、抒情性に富む。
家集『長秋詠藻』は六家集の1つ。
歌論書『古来風躰抄』があり、他に『万葉集時代考』等。
「ていか」とも読む。
父は俊成。
母は親忠の娘の美福門院加賀。
権中納言正二位。
72歳で出家。
法名、明静。
早くから歌才を発揮したが、青年期の作品は晦渋で、六条家等の旧派の歌人たちから「新儀非拠達磨歌」と非難された。
後鳥羽上皇に認められ、父の死後は宮廷和歌の第一人者となった。
和歌所寄人。
『新古今和歌集』撰者の1人。
『千五百番歌合』巻十一、巻十二の判者を務め、貞永1年(1232年)には『新勅撰和歌集』を単独で撰進。
歌風は観念的傾向が著しいが、華麗、妖艶で、特に恋の歌に秀歌が多い。
書は肥痩の調子に独自の風格を出し、『土佐日記』、『小倉山荘色紙形和歌』(『百人一首』の原形)等が著名。
真跡及び伝称の筆跡が極めて多い。
家集『拾遺愚草』の他、『定家卿百番自歌合』、歌論書『近代秀歌』『詠歌大概』『毎月抄』、注釈書『顕註密勘』(1221年)、『僻案抄』(1226年)、『源氏物語奥入』(1227年)、日記『明月記』、物語『松浦宮物語』等、多数の著書がある。
定家の子。
権大納言正二位。
59歳で出家し、法名、融覚。
若い時は詠歌を怠り、蹴鞠に熱中して父を嘆かせたが、承久の乱で順徳上皇と別れた後、『為家卿千首』(1223年)を詠む等、作歌に精進し、父の死後はその後継者となり、後嵯峨上皇の院宣を奉じて『続後撰和歌集』を単独で撰進。
『続古今和歌集』を他の4人と共に撰進したが、真観らの専横を憤って、実際の作業は嫡男の為氏に一任したという。
晩年は側室安嘉門院四条(阿仏尼)とその子の為相らを愛し、死後、子孫が3家に分立する原因を作った。
歌風は平淡で温雅。
歌論では稽古の重要さ、制詞等を説いた。
家集『為家集』、歌論書『詠歌一体』。
母は安嘉門院四条(阿仏尼)。
権中納言正二位。
冷泉家の祖。
為家の晩年、その側室に生まれた子であることから父に愛され、所領、文書等を譲られた。
これが原因で、父の死後、異母兄の為氏との間に係争を生じた。
裁判は為相側の勝訴に終わるが、このことから為氏及びその子の為世ら二条家とは不和で、同じく二条家と争っていた為兼ら京極家の人々とは親しかった。
和歌界においては、遂に熱望していた勅撰集撰者になれず、不遇であった。
屡々京都と鎌倉との間を往復して、武士たちに和歌や連歌を指導する等、鎌倉文化圏の育成に功績があった。
一説に『拾遺風体和歌集』『柳風和歌抄』の編者という。
また、門弟の藤原(勝間田)長清が撰した『夫木和歌抄』の命名者であり、資料提供者でもあると考えられる。
『藤谷式目』は為相が制定した連歌式目。
家集に『権中納言為相卿集』、作品に『為相卿千首』『為相卿百首』がある。
如何でしたか?
冷泉家の初代とその父親の括りみたいですね。
藤原俊成や藤原定家、阿仏尼は、日本史の文化史では登場しますが、政治面では出てくることがほとんどないので、このような繋がりがあったことは、初めて知りました。
最後までお読み頂き有難う御座いました!