こんにちは!
今日は、四納言について紹介したいと思います!
四納言とは、平安時代中期、一条天皇の時代に活躍した4人の公卿のことです。
四納言に選ばれたのは、
源俊賢(みなもとのとしかた)
藤原斉信(ふじわらのただのぶ)
藤原行成(ふじわらのゆきなり)
の4人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
源俊賢とは、平安中期の公卿。
正二位。
一条天皇の蔵人頭を3年経験した後、長徳1年(995年)、参議に任じられた。
妹の明子が藤原道長の妻となったこともあって、道長に追随し、道長から「勤公は人に勝る」と言われたが、口うるさい藤原実資にはその癒着ぶりを「貪欲、謀略その聞こえ高き人」と非難されている。
そうした行動を取らせた背景に、父の失脚(969年、安和の変)という負い目があったことが考えられる。
寛仁1年(1017年)、権大納言に昇進。
能吏であり、藤原行成、公任、斉信と並ぶ四納言。
藤原公任とは、平安中期の学者、公卿。
四条大納言と称される。
関白である頼忠の嫡男で、母は醍醐天皇皇子である代明親王の娘の厳子。
同母姉の遵子は円融天皇の皇后。
蔵人頭を経て、27歳で参議、寛弘6年(1009年)、44歳で権大納言に至った。
晩年に洛北長谷の解脱寺で出家し、この地に隠棲。
その山荘跡は今も「朗詠谷」と称されている。
藤原道長と親しく、道長主催の歌合や遊興には良く出席し、和歌を披露した。
中でも長保1年(999年)、秋の嵯峨遊覧では大覚寺の滝がなくなったのを惜しみ、「滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ」と詠じたことは有名で、藤原行成が『権記』に記す所である。
和歌のみならず漢詩にも優れていたことは三船の故事(『大鏡』)からも分かる。
この時代を代表する文化人で自信家で感情の強い人であった。
公任に歌を非難された為、心痛のあまり病死した藤原長能、逆に褒められ、そのことを記した詠草を錦の袋に入れて家宝とした藤原範永等、和歌に関する逸話が多い。
四納言の1人。
有職故実にも通じ平安時代の三大故実書の1つ『北山抄』を著した。
私選集の『拾遺抄』、歌学書の『新撰髄脳』『和歌九品』、秀歌選の『三十六人撰』等、作品が多い。
勅撰和歌集にも90首程採られている。
名は「なりのぶ」とも言う。
太政大臣である為光と藤原敦敏の娘の子。
長徳2年(996年)、参議となり、5年後には兄の誠信を越えて権中納言に進んだ。
『大鏡』によると、兄は貪欲で人望がなく、自分が任官したいばかりに弟の斉信に中納言の申請をやめさせた。
しかし、道長から誠信に見込みのないことを告げられ、人望の厚い斉信は中納言を申請し、これに任じられた。
恨んだ兄は悶死したという。
寛仁4年(1020年)、大納言に進む。
道長の信任も厚く、その娘の彰子、威子の中宮大夫や外孫敦成親王(後に後一条天皇)の東宮大夫を務めた。
手紙のやりとりをした後、頭中将斉信と対面した清少納言は、その輝くばかりの直衣姿を見て「物語などに素晴らしい描写のある貴公子とはこのことか」と感嘆している(『枕草子』)。
朝儀に明るく一条天皇下の四納言の1人。
藤原行成とは、平安中期の公卿。
生後2年で父と死別し、不遇な青年期を送った。
長徳1年(995年)、24歳の若さで蔵人頭に抜擢されたが、これには、藤原実方と殿上で口論となった際、冠を投げ捨てられても冷静さを失わなかった行成の態度に感じ入った一条天皇が重用したとか、前任者の源俊賢の推挙によるといったことが挙げられる。
俊賢の恩を感じ、一時期位階が上になった時、上席に座らなかったと言う。
長保3年(1001年)、参議となり、19年後、権大納言に任じられている。
権者の藤原道長の信任は厚く、彰子上東門院の立后に際しては、大いに画策したことに気を良くした道長は子の代まで兄弟のような処遇をすると約束した。
道長と同日に死去した。
和歌だけは少し劣っていたと『大鏡』に記される。
能書家として知られ、その筆跡は「権跡」(極官に因む)と言われ、小野道風、藤原佐理と共に三蹟と謳われた。
現存の真蹟は国宝の「白氏詩巻」他少ない。
その日記『権記』は道長時代の政治を知るうえで重要である。
『枕草子』にも実直ながら茶目っ気のある蔵人頭時代の行成が顔を見せる。
邸宅は平安京左京の一条大宮にあった母方の桃園第で、この一郭を寺院としたのが世尊寺。
行成の書の流派を世尊寺流と呼ぶのはこれに因む。
如何でしたか?
4人とも、藤原道長と仲が良かったことから、この時代で出世するには、道長に気に入られることが重要なのかなと思いました。
最後までお読み頂き有難う御座いました!