こんにちは!
今日は、明智五宿老について紹介したいと思います!
明智五宿老とは、室町時代から安土桃山時代に、明智光秀の重臣として仕えた5人です。
明智五宿老に選ばれたのは、
明智秀満(左馬助)
明智光忠(次右衛門)
斎藤利三(内蔵助)
藤田行政(伝五)
溝尾茂朝(庄兵衛)
の5人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
女婿または異説に従弟(明智光安の子)とも言うが、真偽の程は定かではない。
同時代史料に出る実名(諱)が秀満で、当初は三宅弥平次と称し、後には明智弥平次とも名乗っている。
俗伝として光春の名でも知られ、明智光春や満春の名でも登場する。
左馬助(左馬之助)の通称も有名。
俗伝では幼名は岩千代、改名して光俊とも言い、光遠と名乗った時期があるとする説もあるが、その他にも複数の別名が流布している。
明智光秀の家臣。
剃髪して長閒斎と号した。
通称は次右衛門または二郎、二郎四郎。
明智五宿老の1人。
光秀の従父弟で、光秀の重臣の1人のようであるが、事績が登場するのは主に『明智軍記』で、確かな史料は乏しい。
父・光久は伯父・光安と共に弘治2年(1556年)の明智城陥落時に死亡したとされる。
明智光秀の家臣。
春日局の父。
血統的には斎藤道三とは別の系譜で、本来の美濃斎藤氏の一族。
ただし家系には諸説あって判然としない。
父は斎藤伊豆守(諱は利賢、豊後守利忠とも)、母は蜷川親順(室町幕府の重臣蜷川氏)の娘である。
藤田行政
藤田行政とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
明智五宿老の1人と伝わる。
通称は伝五郎または伝五。
光秀の父・明智光綱の代から仕えたとされるが、前半生は不明点が多い。
後に光秀が本能寺の変を決意した際、明智秀満、斎藤利三らと共に、いち早くその決意を打ち明けられた重臣の1人であった(『信長公記』)。
明智光秀の家臣。
姓は「三沢」も使用され発音は「みさわ」の説がある。
『細川家記』の永禄11年(1568年)7月10日条に、明智光秀が足利義昭と織田信長を仲介する際の光秀の家人「溝尾庄兵衛」として史料に初めて登場する。
如何でしたか?
明智秀満、斎藤利三、藤田行政は大河ドラマ『麒麟がくる』にも登場してましたね。
明智光秀は、未だ謎が多い人物なので、その家臣も分からないことが多いようですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!