こんにちは!
今日は、毛利両川について紹介したいと思います!
毛利両川とは、戦国時代の山陰・山陽の大半を統治した戦国大名・毛利元就によって確立した軍事、または政治組織の通称です。
毛利両川に選ばれたのは、
の2人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
毛利元就の次男。
母は吉川国経の娘。
天文 16年(1547年)、外戚吉川興経の養子となり、同18年、家を継いだ。
弘治1年(1555年)、陶晴賢を滅ぼした厳島の戦いをはじめ、尼子氏征討等、本家毛利氏を助けて諸方面に歴戦したが、特に山陰の経略に軍功を立て、小早川家を継いで山陽に活躍した弟隆景と共に「毛利の両川」と謳われた。
毛利氏の中国平定にはこの2人の功績が頗る大きい。
天正 10年(1582年)、毛利氏は豊臣秀吉に屈したが、秀吉に服属することを嫌った元春は同年、隠居した。
しかし、本家の輝元らの要請で秀吉の九州征伐に参加し、陣中で没した。
毛利元就の3男。
母は吉川国経の娘。
天文 13年(1544年)、竹原小早川家を、同 19年、沼田小早川家を継ぎ、兄の吉川元春と共に毛利氏を助け、「毛利の両川」と呼ばれた。
毛利氏が山陽、山陰、九州の一部を領有し得たのは2人の功によるところが大きい。
豊臣秀吉が中国征伐に出陣し、本能寺の変の報に接して天正 10年(1582年)、毛利氏と講和した際、交渉にあたったのは隆景であった。
以後、秀吉と親交を結び、秀吉の四国、九州征伐に参加し、功によって伊予国を、更に同 16年、肥前、筑後の各2郡を与えられた。
次いで文禄の役に従軍。
同4年、参議、次いで権中納言に進み、また大老として秀吉に重用されたが、家督を養子の秀秋に譲って本領備後三原に隠退した。
如何でしたか?
この2人もしれば知るほど面白い人物ですね。
毛利元就の中国統一には欠かせない人物ですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!