こんにちは!
今日は、三子教訓状について紹介したいと思います!
三子教訓状とは、中国地方の戦国大名・毛利元就が1557年(弘治3年)に3人の子に書いた文書のことです。
三子教訓状の3人の子に選ばれたのは、
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
毛利隆元とは、戦国時代の武将。
大永3年生まれ。
毛利元就の長男。
安芸(広島県)多治比猿掛城で出生。
天文15年(1546年)、家督を継ぎ、父の後見を受けて中国地方を転戦。
弘治3年(1557年)、父より教訓状を受け、弟の吉川元春、小早川隆景とともに一族の結束を固めた。
尼子氏攻めに出陣の途上、永禄6年8月4日、安芸佐々部で急死。
41歳。
毛利元就の次男。
吉川興経の養子となり、天文19年、安芸(広島県)日野山城主。
尼子氏を討つ等、山陰で勢力を拡大、山陽で活躍した弟の小早川隆景とともに毛利の両川と言われ、毛利氏の中国地方制覇に尽くす。
天正14年11月15日、九州攻めの際、豊前小倉城(福岡県)内で病死。
57歳。
毛利元就の3男。
安芸(広島県)の竹原小早川家の養子となり、天文19年、沼田小早川家も継ぐ。
兄の吉川元春とともに宗家毛利氏の発展に尽くした。
天正10年(1582年)、中国攻めの羽柴(豊臣)秀吉と和議を結び、以後秀吉に協力し豊臣五大老の1人となった。
慶長2年6月12日、死去。
65歳。
幼名は徳寿丸。
通称は又四郎、左衛門佐。
如何でしたか?
両川に長男の毛利隆元が加わっていますね。
毛利隆元は少しマイナーかもしれないですね。
中国地方の歴史も面白いので、勉強してみたいと思います。
最後までお読み頂き有難う御座いました!