こんにちは!
今日は、日本三大奇襲について紹介したいと思います!
日本三大奇襲に選ばれたのは、
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
河越城の戦いとは、戦国時代の天文 14 (1545) 年、扇谷上杉朝定らが北条氏康の部将北条綱成を武蔵河越城に攻めた戦い。
朝定らは古河公方足利晴氏の援を得て一時優勢であったが、翌年綱成側は氏康の来援を得て、上杉勢を大敗させた。
この結果、古河公方と上杉氏の勢力は衰滅の一途をたどり、関東における北条氏の覇権が確立した。
※北条氏康とは、戦国時代の大名。
後北条氏3代目。
氏綱の嫡子。
名は新九郎。
室は今川氏親の娘。
天文 10 (1541) 年父の跡を継いで小田原城に住し、同 14年駿河に出陣、今川義元、上杉憲政らと戦い、翌 15年には武蔵に出撃して、足利晴氏、上杉朝定、同憲政らの連合軍を破り松山城を攻略。
同 20年晴氏、両上杉の軍を武蔵河越に破り、同 23年武田信玄、今川義元と同盟を結び、古河公方足利晴氏を攻めた。
永禄4 (61) 年には、小田原城を攻めた上杉謙信を戦わずして退かせ、後北条氏の全盛期を築いた。
厳島の戦いとは、毛利元就が、天文 24 (1555) 年 10月1日、主君大内義隆を殺した陶晴賢を、安芸国佐伯郡厳島に襲撃して、自刃させた戦い。
中国地方7ヵ国を領した守護大名大内義隆は、同 20 (51) 年9月1日、家臣陶晴賢に襲われて自殺した。
同 24年9月、家臣毛利元就は、その仇討を名目に晴賢に対し、厳島有浦に築城し、その家臣己斐氏らに守らせた。
これに対し晴賢は、兵2万余を率いて居城岩国を出発し、厳島塔ヶ岡に布陣した。
元就は、山口を発して、9月末日夜半、兵数千を率いて厳島に上陸し、10月1日未明、晴賢を奇襲して、これを破り、晴賢は逃れられず自殺した。
毛利氏は、この勝利によって、中国地方における不動の地位を確立した。
※毛利元就とは、戦国時代の武将。
弘元の子。
幼名、松寿丸。
少輔次郎と称した。
初め尼子晴久に仕えたが、天文3 (1534) 年大内義隆に属して尼子氏に対抗。
義隆が家臣陶晴賢に殺されると、その弔い合戦と称して弘治1 (1555) 年厳島の戦いで晴賢を討ち、その余党も撃滅して長門、周防をその勢力下に収め、さらに永禄9 (1566) 年までに尼子氏ならびにその余党を討って山陰、山陽 10ヵ国と九州、四国の一部をも領有する一大勢力を形成した。
桶狭間の戦いとは、戦国時代、織田信長と今川義元との、尾張国知多郡の桶狭間における戦い。
駿河、遠江、三河3国を領有した今川義元は、永禄3 (1560) 年5月、4万と称する兵を率いて上洛を企て尾張へと進軍した。
尾張国清洲城主織田信長は、砦を構えてこれに対したが、前衛の丸根、鷲津などの砦は同 19日までに陥落した。
同 18日夜半、清洲を出発した信長は、19日正午頃、沓掛から進んで大高に通じる三面起伏の迫る低地 (田楽狭間) に休憩していた義元の本陣を、約 3000人の兵をもって風雨のなかを急襲し、その首級をあげた。
信長はこの勝利によって東海道における勢力を急速に増大させた。
如何でしたか?
桶狭間の戦いの戦いは比較的有名ですが、残りの2つは知らない人も多かったのではないでしょうか?
毛利元就は、1997年の大河ドラマの題材になっているので、興味がある方は是非ご覧下さい!
最後までお読み頂き有難う御座いました!