こんにちは!
今日は、世界三大旅行記について紹介したいと思います!
世界三大旅行記に選ばれたのは、
東方見聞録
入唐求法巡礼行記
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
大唐西域記とは、中国、唐の高僧玄奘(げんじょう)(三蔵(さんぞう)法師)がインド旅行(629~645)中の見聞を語ったものを、弟子の弁機(べんき)が筆録した書物。
「だいとうせいいきき」ともいう。
『西域記』と略称する。646年作。
12巻からなり、玄奘の歩いた順に、138か国にわたって、地理、風俗、産物、言語、伝承、仏教事情が述べられており、政治や民族についても貴重な資料となっている。
第1巻は中央アジアとアフガニスタン、第2巻から第11巻までがインド各地、第12巻がふたたびアフガニスタンと中央アジアにあてられている。
記述のなかには玄奘が直接には赴かなかった国についての伝聞もあり、これが玄奘の直接入手した知識と区別されていないので注意を要する。
本書の研究には慧立(えりゅう)編『大慈恩寺(だいじおんじ)三蔵法師伝』(玄奘の伝記)が参考になる。
本書は、19世紀以降のインド、パキスタン、アフガニスタン、トルキスタンにおける欧米や日本の学者の考古学的調査において重要な指南書となった。
また、文学の分野にも影響を及ぼし、怪奇小説『西遊記(さいゆうき)』は本書の刺激によって書かれた。
本書のヨーロッパ語訳としては、ジュリアンS. Julienの仏訳(1857~58)、ビールS. Bealの英訳(1884)、ウォッターズT. Wattersの英訳(1904~05)がある。
日本では、研究書として堀謙徳(けんとく)『解説西域記』(1912)、足立喜六(あだちきろく)『大唐西域記の研究』(1942~43)のほか、水谷真成(しんじょう)による注釈付き翻訳がある。
東方見聞録
東方見聞録とは、イタリア、ベネチアの商人マルコ・ポーロの行った東方旅行(1271~95)の体験談を、物語作者ルスティケロが記録した旅行記。
正式の名前は『世界の叙述』Description of the world。
マルコ・ポーロは、小アジア、イラン、パミール、東トルキスタン、甘粛(かんしゅく)、長安(西安)を経て中国北辺を横断し、上都(じょうと)(内モンゴル自治区)でフビライ・ハンに会って、そのまま元朝に仕えた。
その後、河北、陝西(せんせい)、四川(しせん)から雲南へ、さらに山東、浙江(せっこう)、福建へと、広く中国各地を旅行し、福建のザイトン(泉州)からインドシナ、ジャワ、マレー、セイロン(スリランカ)、インドのマラバルなどを経由して、ペルシア湾のホルムズに達した。
旅行地域の風俗、慣習のほかに、中国人の記録にはみられない元朝の宮廷内の事情が記されており、また、日本を黄金の国としてチパングChipanguの名で初めてヨーロッパに紹介した。
その内容があまりにももの珍しいため、初めは信じられなかったが、そののち、多くのヨーロッパ人がアジアへ旅行するにつれて、この書の記事の正確さが知られるに至った。
これはコロンブスのアメリカ発見の機縁となり、またヘディンやスタインは、その中央アジア探検に、この書を座右から離したことがなかった。
ルスティケロの原本は早く散逸したが、それを基にして潤色、加筆、または削除した多くのテキストができ、そののち幾多の変遷を経て、今日の諸テキストが伝来した。
これらの異本は、ムールとペリオとの共編によって校合(きょうごう)のうえ出版されている。
入唐求法巡礼行記
入唐求法巡礼行記とは、平安初期の旅行記。
四巻。
円仁撰(えんにんせん)。
天台宗の慈覚(じかく)大師円仁が838年(承和5)遣唐使藤原常嗣(つねつぐ)に従って唐に渡り、847年10月に帰着するまでの在唐九か年の記録。
揚州、海州、登州を経て、840年に都長安に達した。
その記載は、円仁が直接見聞したものであり、精細を極め、史料的価値は高い。
彼の中国における行程の記述は忠実であり、唐代仏教の状態、ことに密教儀式、仏教寺院の経済状態、仏教遺跡のありさまを知る好資料である。
とくに武宗の会昌(かいしょう)の廃仏にあい、自らも道士に変装して難を逃れつつ、その惨状を親しく見て記載してあり、この事件に関する中国側の記録の不足をも補う資料ともなっている。
如何でしたか?
マルコ・ポーロは、知っている方も多いのではないでしょうか?
昔の旅行というものは、命懸けで行っていたので、大変だと思いました。
最後までお読み頂き有難う御座いました!