こんにちは!
今日は、毛利五奉行について紹介したいと思います!
毛利五奉行に選ばれたのは、
児玉就忠(こだまなりただ)
桂元忠(かつらもとただ)
赤川元助(あかがわもとやす)
粟屋元親(あわやもとちか)
国司元相(くにしもとすけ)
の5人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
児玉就忠とは、戦国時代の武将。
毛利氏の家臣。
安芸児玉氏の一族。
児玉元実の次男。
兄に児玉就兼、弟に児玉就方。
子に児玉元良、小方元信、児玉春種、内藤元輔。
毛利隆元の時代になり、毛利家中の五奉行制が確立された際には、五奉行の1人となった。
五奉行としての役目は元就と隆元の連絡調整役であり、また、元就との被官関係はそのままであった。
その為、隆元の家臣であった赤川元保や国司元相とは不仲であったとされる。
桂元忠
桂元忠とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
毛利氏の家臣で、五奉行の1人。
桂広澄の次男。
兄に桂元澄、弟に桂就延、桂保和がいる。
養子に桂就宣。
官途は上総介。
天文19年(1550年)に毛利隆元の下で五奉行制度が始まると、その正直な性格を元就に評価され、五奉行の一員として活動した。
五奉行の中では児玉就忠同様、親元就派だった為、親隆元派だった赤川元保、国司元相、粟屋元親らとは対立したが、隆元が元就の隠居を止める書状を元忠に送る等、元就と隆元を繋ぐ役割を果たしていた。
赤川元助
赤川元助とは、戦国時代の武将。
毛利氏の家臣。
天文19年(1550年)、五奉行制度が始まると、毛利隆元の直属奉行人筆頭に任命された。
隆元側近の重臣として活躍するも、親隆元派として驕慢な振る舞いが多く、親元就派の重臣であった児玉就忠や桂元忠達と屡々対立した。
粟屋元親
粟屋元親とは、戦国時代の武将。
毛利氏の家臣。
毛利氏の五奉行の1人で、毛利十八将の1人。
祖父は粟屋元秀、父は粟屋元忠。
天文24年(1555年)の厳島の戦いの後の防長経略でもその武勇を発揮した。
また、毛利隆元の側近として内政面にも優れ、毛利氏の五奉行制度が成立すると、赤川元保、国司元相、桂元忠、児玉就忠らと共に、その1人として活動した。
国司元相
毛利氏の家臣。
天文19年(1550年)、家中の井上党を粛清した毛利元就は、新たな体制として五奉行制を定めると、元相は赤川元保、粟屋元親、桂元忠、児玉就忠と共にその1人となった。
如何でしたか?
毛利元就は、一国の国人から中国地方を治める大名にまで成長したので、人気のある武将ですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!