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近世三代って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、近世三代について紹介したいと思います!

 

近世三代に選ばれたのは、

の3つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

 

 

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元とは、モンゴル人が中国を征服して建てた王朝(1271~1368年)。

モンゴル帝国第4代皇帝モンケ(憲宗)の死後、帝位継承争いの中から中統1年(1260年)、世祖フビライ・ハンが即位し、大都に遷都。

至元8年(1271年)、国号を大元とし、南宋を征服、満州チベットを併有、高麗を属国とし、東アジアをほぼ統一する大帝国を建設。

政治機構は宋、金のそれに類似し、大領土支配の為、自治的機能を持つ行省を、直轄地を支配する中書省の出先として設けた。

支配民族のモンゴル人、色目人(西方人)、被支配民族の漢人(金国人)、南人(南宋人)の順位の身分制を設けて支配し、官庁の長は前2者が占めた。

また、駅伝制度のジャムチ(站赤)を整え、大領土支配を円滑にし東西交渉の繁栄を招き、紙幣である鈔を法貨とした。

至元31年(1294年)の世祖の死後約30年元朝の盛期は続いたが、皇位継承争いと権臣の悪政によって乱れ、至正28年(1368年)8月、順帝は、紅巾出身の明の太祖により漠北に追われて元朝は滅びた。

 

 

 

 

 

 

 

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明とは、中国、モンゴル民族の元朝を倒し、漢民族の支配を復興した王朝(1368~1644年)。

元末の動乱期に貧農から身を起こし、紅巾軍に投じて頭角を現した朱元璋は、江南の経済力を基盤に各地の群雄を降して、華中一帯を制圧、洪武1年(1368年)、南京で帝位に就き(太祖)、国号を明と定め、更に元朝を漠北に追放して中国の統一を完成した。

太祖は内政改革に意を用い、君主独裁による中央集権体制を確立した。

太祖の死後、諸王の勢力が次第に強大となり、中央政府を脅かす程になったが、靖難の変を起こした永楽帝は太祖の後継者をもって任じ、安南の征服、モンゴルの親征、南海経略等、対外的に積極策を用い、明の国威を内外に発揮した。

しかし、土木の変(1449年)を契機として中期以後の明の対外政策は消極的となり、嘉靖年間(1522~1566年)頃には北虜南倭に苦しみ、財政的にも窮迫した。

万暦年間(1573~1619年)初期の張居正の改革は、従来の弊政を粛正し財政の立直しを成功させたが、それも一時的で、やがて万暦の三大征(ボバイの乱、朝鮮の役、播州の乱)をはじめ、宦官の全国的派遣による鉱税の害(新しく鉱山を開き、商税を増徴して過酷な誅求を行った)を生じて国民経済は再び破綻した。

加えて満州の勃興は財政を一層緊迫化させ、遼餉等、軍事付加税の増大を招いた。

しかも政局は東林派と非東林派の無責任な党争が激化し、また宦官による暴力政治が横行した。

このようにして過酷な徴税で民生は崩壊し、各地に起った農民暴動は大規模な反乱となり、李自成の北京侵入により、崇禎帝(毅宗)が自殺して明は滅んだ。

 

 

 

 

 

 

 

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清とは、中国史上、最後の王朝(1636~1912年)。

満州族の建てた征服王朝であり、清朝末期から中国近代史が始まる。

満州人は明朝末期に海西女直、建州女直、野人女直の3部に分かれ、明の支配下にあったが、建州女直出身のヌルハチ(奴児哈赤)が満州族を統一してハン(汗)位に就き、1616年に国号を後金と号したのに始まり、以後宣統帝まで12代続いた。

ヌルハチはサルフの戦いで明軍を破り遼東に進出し、第2代ホンタイジ(皇太極)は内モンゴルを征討すると崇徳1年(1636年)に国号を大清と改めて皇帝に即位した。

順治1年(1644年)に李自成が明を滅ぼしたのに乗じ、呉三桂に導かれて中国内地に進出し北京を都とした。

第4代康煕帝の時に三藩の乱を鎮圧し、最後の反清復明勢力であった鄭成功の子孫も帰順し、全中国の統一に成功した。

また、ネルチンスク条約でロシアの東進を阻止した。

続く雍正帝乾隆帝時代に準部、回部に支配権を及ぼし、チベット保護領にする等、今日の中国領土の原形を作り上げた。

安定した政治による経済発展も目覚ましく、「康煕、乾隆の盛治」を現出した。

乾隆末年から嘉慶帝時代に白蓮教徒の乱等の国内の動揺、加えてヨーロッパ資本主義の進出が始まり、第8代道光帝の時に武力による開国、アヘン戦争が起こった。

アヘン戦争を契機にヨーロッパ列強の中国進出は激化し、中国は半植民地化するに至った。

咸豊帝時代に太平天国の革命運動も展開され、清朝は内憂外患に大きく動揺する。

同治帝から光緒帝初期の洋務運動に代表される富国強兵策、あるいは日清戦争敗北以後の伝統的支配体制の変革を目的とする戊戌の変法が展開され、支配体制内部からの改革も試みられたが成功せず、更に義和団事変の後には立憲案等の諸改革も推進されたが、「滅満興漢(満州人の支配体制を滅ぼし、漢人の支配体制を目指す)」の民族主義と反封建主義とに立脚した孫文に代表される革命勢力は辛亥革命を成功させ、1912年、宣統帝は退位して清朝は滅亡し、中華民国が成立した。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

ここら辺の王朝になると、日本史でも頻繁に登場しますね。

後に中華民国となり、そして現在の中華人民共和国と変化していくわけですね。

そう考えると、中華人民共和国はまだ成立から70年くらいなので、まだまだ過去の王朝には及ばないですね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!