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後三代って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、後三代について紹介したいと思います!

 

後三代に選ばれたのは、

の3つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

 

 

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漢とは、中国古代の統一王朝、前漢(前202~後8年)及び後漢(25~220年)をいう。

高祖1 年(前206年)に秦が滅亡すると、項羽が西楚覇王と称したが、現在の陝西省南部に漢王として封じられた劉邦が、高祖5年(前202年)、項羽を破って帝位に就き、都を長安に定めて漢王朝を創始。

漢は初め郡国制を敷いたが、前漢武帝(在位前141~87年)の時代には中央集権制を確立。

匈奴を討って西域と通じ、朝鮮、ベトナムに遠征して領土を拡大した。

しかし、帝の死後外戚など側近が権勢を張り、初始1年(8年)には外戚王氏出身の王莽が帝位を奪って新を建てた。

従って、新以前を前漢と呼ぶ。

新は長く続かず、更始3年(25年)には漢の一族劉秀が諸賊を破って帝位に就き、都を洛陽に定め漢を復興した。

以後を後漢と呼ぶ。

4代の和帝の頃から再び外戚、宦官が権力を握り帝位を左右した為、一般官僚との間に激しい争いを展開した。

中平1年(184年)、農民による黄巾の乱が起こると各地に群雄が割拠、やがて曹操劉備孫権がそれぞれ華北、蜀、呉の3地に分立し、延康1年(220年)、献帝曹操の子曹丕に譲位して、漢は滅亡した。

なお、都の位置により前漢西漢後漢東漢とも呼ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

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唐とは、中国の王朝(618~907年)。

李淵李世民父子が隋末の群雄を平定して建国。

三省六部、九寺五監及び御史台などを中心とし、地方を道、州、県に分け、律令格式を整備した。

唐の中央政界は隋代に引き続いて貴族の勢力が強かったが、一方では科挙制度を敷いて官僚制を推進した。

財政面では均田制に基づく租・庸・調並びに雑徭の徴収を原則とし、軍事面では全国に折衝府を配置して徴兵を行い、国家権力による人民把握に努めた。

唐初は対外的発展も目覚ましく、東突厥を滅ぼし、西突厥を討ち、吐谷渾や吐蕃を破って西域を支配するとともに、百済高句麗を降して朝鮮をも征した。

新たに勢力の及んだ四方辺境の地には6都護府を設置し、所謂羈縻政策を行った。

しかし 、7世紀末、高宗が没すると、皇后武氏が政権を握って帝位に就くに至った(690~705年)。

武周政権は中宗復位によって終わったが、再び皇后韋氏の専権があり、唐の政治は屡々動揺した。

玄宗が立つと復興に努め、唐の文化は最盛期に達したが、一方この頃から均田制は崩れて農民の没落が起こり、府兵制も行われなくなり、募兵制が採用され、社会不安は増大した。

玄宗は10節度使を配置し、辺境守備にあたらせたが、やがてその中から安史の乱(755~763年)が発生し、唐朝は俄かに衰退に向かった。

かくて均田体制は完全に崩壊し、荘園が王侯貴族、官僚、豪商あるいは寺観によって大々的に開発され、農民は小作人(佃戸)化した。

その結果、国家財政が逼迫し、これを打開する為、両税法が施行された。

また、節度使も一般的に内地に置かれるようになり、地方分権化も進んだ為、律令政治は行き詰まった。

特に河朔三鎮(河北の節度使)は激しく唐朝に抵抗した上、中央政界でも宦官の跋扈や党争が相次ぎ、政治は乱れた。

9世紀後半、唐朝の経済的基盤であった江南において龐勛らの反乱が起こり、山東でも王仙芝、黄巣の乱が10年に及んだ為、中央の権威は失墜。

やがて元黄巣の部将だった朱全忠が政権を握り、開平1年(907年)、哀帝を廃し、後梁朝を建てた。

 

 

 

 

 

 

 

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宋とは、中国、唐末、五代に続く統一王朝(960~1279年)。

開封を都とする北宋期(960~1126年)と、靖康の変(1127年)で南渡して臨安を都とする南宋期(1127~1279年)に大別される。

宋の太祖趙匡胤は五代後周の武将から天子となり、軍閥国家の弊害をみて文治主義の方針を採り、巧妙な手段で武人支配を文官優位の官僚機構に組み替え、君主独裁制の基礎を確立した。

また、国家財政の充実の為に、これまでの土地税収入に頼るだけでなく、商業課税や専売収益の比重を増大する政策を採った。

しかし、対外的には、契丹西夏の侵入を受けて歳幣(外国に対する毎年の贈与)と軍費の捻出に苦しんだ。

王安石の新法は、この難局打開の為の富国強兵策であったが、新法の実施は大地主、豪商、官僚等の階級の利益を侵害するところが多く、彼らの激しい攻撃を受けた。

こうして新旧両法党の対立が激化し、政治的混迷が続いている際、満州に起った女真族の金の侵入を招き、華北の地を占領されてしまった。

南宋期には、金に対する主戦論が強く盛り上がったが、宰相秦檜が政局を握ると金との間に和議が成立した。

しかし、両国の和平は屡々破れ、臨戦体制の状況下に国家財政は窮迫し、過酷な徭役と重税に加えて紙幣が乱発され物価が高騰し、人民の生活は苦しく、失業者の増大で反乱も頻発した。

このような政治、社会の混乱期にあって、更に強大なモンゴルの侵入に遭い、南宋はこれに滅ぼされた。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

比較的長く続いた王朝ですね。

中国王朝は、短い王朝の次が長期政権になる傾向があるので、覚える時に意識してみては如何でしょうか?

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!