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五賢帝って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、五賢帝について紹介したいと思います!

五賢帝とは、1世紀末から2世紀後期に在位したローマ帝国の5人の皇帝のことです。

 

五賢帝に選ばれたのは、

ネルウァ

トラヤヌス

ハドリアヌス

アントニヌス・ピウス

マルクス・アウレリウス・アントニヌス

の5人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

ネルウァ

 

 

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ネルウァとは、ローマ皇帝(在位 96~98年)。

五賢帝の1人。

2度執政官(コンスル)となる。

ドミチアヌス帝の暗殺後、その家柄と穏健さを買われて元老院に迎えられ、老齢で即位。

先帝の恐怖政治時代から一転して、追放者を呼び戻し、没収財産を返却した。

元老院と協調し、祭儀を縮小、植民市(コロニア)、道路、水道の建設、貧民への土地、食糧の配分、経済的負担の軽減等の政策を進め、これらは彼の養子とされたトラヤヌス、次いでハドリアヌスらに引き継がれた。

反乱の首謀者やキリスト教徒に対しても寛大であった。

トラヤヌスを養子に定めてから3ヶ月後に急死し、アウグストゥス帝の墓地に葬られた。

 

 

 

 

 

トラヤヌス

 

 

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トラヤヌスとは、ローマ皇帝(在位 98~117年)。

五賢帝の1人。

ヒスパニアの出身。

88~89年、ライン地方のサツルニヌスの乱を討ってドミチアヌス帝に認められ、次帝ネルウァの登位後、上ゲルマニア総督となり、97年、ローマに近衛兵の反乱が起った時、ネルウァの養子としてその後継者となった。

即位後は穏健な政治を行い、元老院を尊重、政策を諮問し、自身国家のしもべとして人民にも寛大であろうとした。

ローマに大建築物を造営、競技を開催し、荒地開拓、港湾建設を行った。

キリスト教徒に対しては過度の弾圧を禁じた。

元老院は彼にオプチムス(最良者)の称号を与えたが、114年まで固辞し続けた。

対外政策も積極的で、ダキアを属州としアラビア、パルティア、ドナウを征討し、ブリタニアから黒海に至る北部国境を安定させ、ローマ帝国の最大版図を現出させた。

113~117年、パルティアを討ち、アルメニア、北メソポタミアを属州とし、パルティアの主都クテシフォンを陥れ、チグリス川を下ってペルシア湾に達したが、征服したばかりのパルティア等の反乱及びキレナイカからエジプト、更にキプロス、アジアまで広がったユダヤ人の大反乱にあった。

一時は戦線を回復したものの重病にかかり、東方地域の管理をハドリアヌスに委ねた。

ローマへの帰途陣没した。

 

 

 

 

 

ハドリアヌス

 

 

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ハドリアヌスとは、ローマ皇帝(在位 117~138年)。

五賢帝の1人。

ヒスパニア元老院議員家系の出身。

先帝トラヤヌスの血縁にあたる。

トラヤヌスが死の床で彼を養子としたと称して、その時シリアにあったハドリアヌスは現地で即位。

しかし、元老院がこれに疑いを持って両者の関係は冷却、また、ダキア,エジプト,ブリタニアの政情不安もあってユーフラテス川以遠の、トラヤヌスが征服した地域を放棄してローマに帰り、借財帳消し、貧民救済策によって人気を獲得し、対外的には防衛策に転じた。

ローマを離れて各地を巡察し、騎士身分(エクイテス)を登用して官僚制を整え、貨幣発行による財政建直し、立法整備を行った。

また、新しい形式のラテン市民権である大ラテン市民権を創設、この権利を得た都市の全ての地方元老院議員にローマ市民権を与え、ローマ元老院に多くの属州の貴族を補充させた。

辺境にはハドリアヌス長城等の城壁を修築、駐屯地からの徴兵等の軍制改革、荒廃したエジプト等では植民に努めた。

アテネを愛しオリュンピア、ゼウスの神殿を造らせ、他にも公共施設を多く建設させた。

エルサレムには新市アエリア・カピトリナを建設。

これに反抗したラビ・アキバらユダヤ人を徹底的に弾圧した(132年)。

また、同性愛の愛人アンチノースの死後、エジプトに新市アンチノポリスを建設し、祭儀を行わせた。

晩年はチボリ(ローマ近郊)の広大な別荘に引きこもった。

優れた政治的手腕を持つとともに、文芸、絵画、算術を愛好、学者を厚遇した。

アントニヌス・ピウスを養子とし、死後、彼によって神格化された。

 

 

 

 

 

アントニヌス・ピウス

 

 

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アントニヌス・ピウスとは、ローマ皇帝(在位 138~161年)、五賢帝の1人でその4番目にあたる。

120年、執政官(コンスル) 。

イタリアの司法行政を支配。

後、アシア州総督。

ハドリアヌス帝の養子となり、その死後、即位。

元老院と協調し、「敬虔」 の名を得る。

穏健で、殆どローマを離れずに政治を行った。

治世は概ね平和、役人の地位を安定させ、属州の負担を和らげ、冗費を節約、法施行に際しては寛大であった。

社会政策も進め、キリスト教迫害を緩和した。

外部に対しては防御的で、ブリタニアにアントニヌス長城を築き、ゲルマニアにも防壁を築いた。

ブリタニアダキア北アフリカユダヤで小規模な反乱もあったが、政治の中央集権化が進み、安定しており、A.アリスチデスによってその平和が讃えられた。

147年、彼の手によりローマ建国900年祭が行われた。

彼の死後、養子マルクス・アウレリウス・アントニヌスが即位した。

 

 

 

 

 

マルクス・アウレリウス・アントニヌス

 

 

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マルクス・アウレリウス・アントニヌスとは、ローマ皇帝(在位 161~180年)。

ストア派の哲人皇帝で、五賢帝の1人。

ヒスパニア系の名家の出身。

祖父から厳格な教育を受け、フロント、ヘロデス・アッチコスらを師とした。

ハドリアヌス帝の意向でアントニヌス・ピウス帝の養子となり、145年、その娘ファウスチナを妻とした。

146年からピウス帝と共同統治。

その間の 140、145、161年と3度執政官(コンスル)に就任。

161年、ピウスの死後その跡を継ぎ、161~169年はルキウス・ウェルスと共同統治。

統治中は戦乱、疫病が相次ぎ東奔西走した。

特に165年のパルティアとの戦争で疫病が持ち込まれ、多数の死者を出した。

更にマルコマンニ、グァディ両族と戦い、175年、全東方属州の総督格であったガイウス・アウィディウス・カッシウスがゲルマニアで反乱を起こすと、鎮圧の準備に取りかかった。

しかし、アウィディウス・カッシウスが部下に暗殺された為、東方の平定と査察の為、アンチオキア、アレクサンドリアアテネを歴訪。

その帰途、妻に他界された。

公正、潔癖な政治を行ったが、ストア的立場からキリスト教徒には迫害策をとった。

また、陣営で執筆した『独語録』はこの時代の文学・哲学作品の中でも優れたものであり、その中で敬虔を説き、宇宙の理性に従うべきことを君主の理想としている。

そこにはマルクス・アウレリウス・アントニヌスの厳格、思索的な性格が示されている。

戦争が続き、属州への負担が強化され、帝国に危機が忍び寄る中で実子コンモドゥスに位を譲って陣中で病没。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

世界史を勉強したことのある人にとっては、有名ですよね。

五賢帝以外にも、個性的な皇帝が沢山いるので、勉強していきたいと思います。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!