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三代って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、三代について紹介したいと思います!

三代とは、中国史で最も古い3つの王朝のことです。

 

三代に選ばれたのは、

夏(か)

殷(いん)

の3つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

 

 

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夏とは、中国の伝説上の最初の王朝。

姓はじ。

史記』によると禹王より17代、約500年ぐらい続いたという。

禹は鯀の子で、帝舜に仕えて水土を司り、黄河の治水に成功し、天下の土地を測量して貢物を定め、舜の禅譲を受けて夏王朝を建てた。

禹から17代目にあたる桀は暴君で奢侈淫逸にふけり、商(殷)の成湯に滅ぼされたという。

夏の後裔と言われる杞が周代の諸侯国として存したが、夏そのものの実在は現在までのところ確証は無く、偃師二里頭期と考える者もあるが、依然として不明である。

 

 

 

 

 

 

 

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殷とは、中国最古の王朝(?~前1122/1027年)。

商ともいう。

姓は子。

史記』等の伝えによると、帝こくの妃、簡狄が玄鳥の卵を飲んで生んだ契を始祖とする(卵生説話)。

以後 14代目の湯王(天乙)までの間、河南、山東、河北方面を8回に渡り遷都した。

湯王は河南の亳に都を置き、夏の桀王を滅ぼして殷王朝を建てた。

それから19人の王が続き、都も5遷したが第19代の王盤庚に至って再び亳に都を定めた「現在の殷墟)。

盤庚より8代12王が続いたが、最後に紂王が現れて暴政を行い、周の武王に滅ぼされた。

20世紀に入り、甲骨文字の研究や殷墟の発掘により殷王朝の実体が明らかになった。

その結果『史記』に伝えられる殷王朝の系図は、(1)初期の神話的諸王、(2)十干の順に並ぶ祖先神、(3)湯王以後の祖先神、(4)盤庚以後の殷墟に都をおいた諸王、に区分され、更に殷墟の時代は5期に時代を分けて考え得ることが分かった。

祭祀をはじめ社会の状態もかなり明らかになり、暦も復元されている。

殷の政治は祭祀権を持つ王によって支配され(神権政治)、王族、特に王子たちの集団(多子族)やその妻たちの集団(多婦族)によって支えられた血縁的な性格が強く、地方にいる異族は「方」と呼ばれ、殷王室を盟主として服属していたらしい。

なお、王位は血縁的秩序に基づく兄弟相続制により受継がれていたが、末期には父子相続に変える傾向にあった。

王族の配下には軍事や祭祀の集団、あるいはその他の職能的集団が服属し、そこには多くの奴隷も付属していた。

殷墟の文化は青銅器時代の最盛期と見られるが、これは殷の後期の文化であり、更にそれ以前の文化が河南の鄭州市二里岡において、また殷代早期と思われる遺跡も河南の偃師県二里頭等で見出されている。

 

 

 

 

 

 

 

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周とは、中国古代の王朝(前1050頃~256年)。

伝説上の祖を后稷と言う。

元々、陝西または山西の奥にいた部族と見られるが、古公亶父の時、犬戎の圧迫で渭水盆地に望む岐山の麓に移り,子の季歴から西伯昌、武王の3代で体制を整備し、武王が殷を滅ぼし前11世紀に建国した。

都は鎬京。

2代成王が東都らく邑を建設。

3代康王にかけ天下は安定した。

10代厲王の失政により、一時王統が絶え、11代宣王が中興した。

12代幽王は褒じへの愛に覚えて暴政を行い、戎狄の侵入を受け殺され、13代平王がらく邑に遷都した(前 770年)。

それ以前を西周(前1050~770年)、以後を東周(前770~256年)と呼ぶ。

東周期は春秋・戦国時代で、王の実権は無くなり、37代赧王の時、秦の昭王に滅ぼされた(前 256年)。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

国史における最も古い時代ですね。

歴史的に分かっている部分が少ないですが、ここが解明されていけば、日本の歴史も少しずつ分かってくるかもしれないですね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!