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三晋って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、三晋について紹介したいと思います!

三晋とは、戦国時代の中国における三国の総称です。

 

三晋に選ばれたのは、

趙(ちょう)

魏(ぎ)

の3つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

 

 

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趙とは、中国、戦国時代の国名。

晋に仕えていた大夫の趙氏が、紀元前403年、韓氏、魏氏と共に晋を三分して独立した諸侯となり、晋陽(太原市)に都を置いた時から始まる。

現在の山西省北部、河北省南東部を領有し、戦国七雄の1つに数えられる。

前4世紀末に初めて王を称した武霊王(在位前325~前299年)は遊牧民特有の騎馬戦法を採用して諸国に威力を示し、次の恵文王(在位前298~前266年)は都を邯鄲に移し、中山王国を滅ぼし、代(河北省蔚県)から陰山山脈に沿って内モンゴルに至る長城を築いて勢力を誇った。

しかし、同時にこの頃から秦の攻撃を屡々受け、平原君の活躍等により以後、4代に渡って国を維持したが、前228年に秦に邯鄲を落とされ、前221年に亡命中の王子嘉が殺されて滅亡した。

 

 

 

 

 

 

 

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魏とは、中国、戦国時代の国(前403~前225年)。

戦国七雄の1つ。

周と同姓の畢公高の子孫である畢万が晋の献公に仕え、魏地を与えられて魏氏となった。

その子孫の魏絳は悼公の時、国政に参与し、次第に魏氏は晋の六卿の一員として力を伸ばし、韓氏、趙氏と共に、范、中行、知の3氏を滅ぼし、紀元前453年、魏桓子の時、実質上晋を三分し、その孫文侯の代の前403年、周室より諸侯と認められた。

文侯と子の武侯の頃は安邑(山西省夏県)を都として、現在の山西省南西部を中心に、田子方、呉起らの賢者、名将、更に相として李克や魏成子らの人材を登用し、国力充実、領土拡大に努め、高い文化を持つ強国となった。

しかし、強大化する秦の侵攻を次第に受けるようになり、前340年には都を東の大梁(河南省開封県)に移さざるを得なくなり(その為、魏を梁と呼ぶこともある)、一時信陵君の活躍で反撃したが、前225年、秦の前に滅亡した。

 

 

 

 

 

 

 

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韓とは、中国、戦国時代に山西省南東部から河南省中部にかけての地を領有した国。

戦国七雄の1つ。

王室の祖先は春秋時代の山西の大国晋の一族。

晋の勢力圏にあって魏氏、趙氏と並び称された。

韓氏、魏氏、趙氏は、范氏、中行氏等、他の有力世族を次第に滅ぼして、その所領と権力を拡大していった。

紀元前451年、晋の最大世族知氏を滅ぼして、晋の領地を三分し、前403年には魏氏、趙氏と共に晋を継ぐ存在として、周から認められた。

韓氏の所領の中心は、春秋末の平陽から、宜陽、陽翟へと移り、前375年には鄭を滅ぼして、そこに国都を置いた(河南省新鄭)。

前356年、韓の昭釐公は申不害を登用して官僚制を整備し、次の宣惠王は王を称するに至った。

しかし、その後は西の秦、南の楚に圧迫されて振るわず、次第に秦の侵攻を受けて前230年に滅ぼされた。

その少し前、秦に使いして殺された韓非(『韓非子』は彼の著とされる)は、韓の王族である。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

三国時代よりも秦よりも前の春秋戦国時代の話ですね。

三国時代は『三国志』、秦については『キングダム』で有名ですが、春秋戦国時代は、あまり取り上げられていないので、少しマイナーかもしれないですが、面白い歴史だと思います。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!