こんにちは!
今日は、甲骨四堂について紹介したいと思います!
甲骨四堂に選ばれたのは、
羅振玉(らしんぎょく)(羅雪堂)
王国維(おうこくい)(王観堂)
郭沫若(かくまつじゃく)(郭鼎堂)
董作賓(とうさくひん)(董彦堂)
の4人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
羅振玉
羅振玉とは、中国、清末、民国初期の学者。
浙江省上虞県の人。
字は叔言。
号は雪堂、貞松老人。
初め、農学の改良、教育制度の改善と西洋新知識の導入に尽力。
宣統1年(1909年)、京師大学堂農科大学監督に就任。
辛亥革命にあって日本に亡命、京都に住んだ。
帰国して天津に居住し、宣統帝の師傅としてその教育にあたったが、満州国成立とともに参議、監察院長等の要職を歴任。
金石学、考証学の第一人者として知られ、殷墟出土の甲骨文字に最初に注目し、その研究書『殷墟書契考釈』等がある。
また、敦煌発見の文書の研究も行い、敦煌学の基礎を築いた他、明・清檔案の保存整理にも力を尽くした。
王国維
王国維とは、中国、清末~民国の歴史家、文学者。
浙江省海寧県の人。
字、静安。
号、観堂。
光緒24年(1898年)、上海に出て羅振玉に認められ、光緒27年(1901年)、日本に留学したが、病気で翌年帰国。
辛亥革命の際、羅振玉と日本に亡命して京都に住んだ。
1916年、帰国し、北京精華学校等に勤めたが、身辺上の問題、精神上の行き詰まりも絡んで、清王朝の滅亡に殉じるように投身自殺した。
初め西洋哲学の研究から文学の研究に入り、『紅楼夢評論』(1904年)、『人間詞話』等で中国近代文学批評の先駆けとなった。
京都滞在中から清朝考証学に戻って、史学、金石学、言語学等に優れた業績を残している。
その膨大な著作は、死後、羅振玉が編集した『王忠愨公遺書』(1927~1928年)に収められている。
郭沫若とは、中国の文学者、政治家。
名、開貞。
号、尚武。
沫若は筆名。
他に麦克昂、易坎人。
1914年、九州大学医学部に留学。
1921年7月、日本で郁達夫らと「創造社」を組織し、「芸術のための芸術」を主張。
1923年、帰国。
1925年、プロレタリア・リアリズムを提唱し、同時に実践活動に投じ、1927年4月、蒋介石の上海クーデター(国共分裂)後、南昌蜂起に加わり、次いで弾圧を逃れて日本に亡命、中国古代史や文学研究に没頭した。
1937年、蘆溝橋事件の直後、日本人妻子を残して帰国、抗日救国の宣伝活動や評論、劇作に活躍した。
解放後は民主政治運動の先頭に立ち、中央人民政府政務院副総理、文化教育委員会主任、科学院院長、中日友好協会名誉会長等を兼任。
文革時代から四人組批判以降も一貫して文化界の重鎮として活躍し、1977年には全国人民代表大会常務委員会副委員長。
小説『牧羊哀話』『函太関』、戯曲『北伐』、自伝『創造十年』、論文『中国古代社会研究』『卜辞通纂』『両周金文辞大系考釈』『十批判書』等。
董作賓
董作賓とは、中国の考古学者。
北京大学卒業後、国立中央研究院歴史語言研究所に入り、殷墟の発掘に従事した。
後に台湾に移る。
甲骨文字の研究者として有名である。
如何でしたか?
4人とも甲骨文字の研究者として有名なようですね。
世界史の序盤で甲骨文字が登場しますが、このような素晴らしい研究者の功績のおかげで、多くのことが分かってきたのですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!