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三国時代(朝鮮半島)って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、三国時代朝鮮半島)について紹介したいと思います!

 

三国時代朝鮮半島)に選ばれたのは、

高句麗(こうくり)

百済(くだら)

新羅(しらぎ)

の3つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

高句麗

 

 

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高句麗とは、朝鮮の古代三国の1つ。

7世紀まで中国東北部(旧満州)から朝鮮北部を支配した。

高句麗の名称は『漢書』にも見られ、紀元前後には中国の脅威となる勢力であった。

初めは佟佳江流域付近を拠点とし、次第に南下して遼東半島方面に台頭した公孫氏と衝突を繰り返した。

3世紀前半、公孫氏に代わった魏の将軍毌丘倹により首都丸都城が陥落し、高句麗の発展は一時頓挫した。

4世紀初め、遼東方面への進出は前燕に阻止されたが、313年には晋による朝鮮支配の根拠地楽浪郡を併合、この結果、朝鮮半島南西部を支配した古代三国の1つ百済と、百済を支持する倭と対立することとなった。

一時は百済との戦いで国王の故国原王が戦死する等、大きな打撃を受けたが、4世紀末に広開土王が即位して強勢となり、北西では後燕の遼東城を攻略、また南下して百済や倭軍を破り、朝鮮半島南東部を支配した古代三国の1つ新羅朝貢させる等、半島の過半を制圧した。

次代の長寿王は丸都城から平壌に遷都して更に積極策を進め、北西では遼河を挟んで北魏との国境とした。

広開土王、長寿王、そして次の文咨明王の3代約130年が高句麗の最盛期であり、中央集権体制も整備された。

しかし、台頭した新羅百済と結んで領土の拡大を図り、6世紀後半以降、新羅との関係は急速に悪化した。

一方、581年に中国を統一した隋に侵攻されたが、突厥と結びこれを防いだ。

隋は高句麗遠征の失敗から内乱が起こって滅亡し、隋に代わった唐も7世紀前半の太宗の時代に遠征を行ったが、これも退けた。

太宗を継いだ高宗は新羅と同盟し、高句麗と結んだ百済を663年に滅ぼした。

次いで内紛に乗じて唐と新羅の連合軍は高句麗を攻撃、668年に平壌は陥落、唐によりこの地に安東都護府が設けられ、直接支配下に置かれた。

なお、高句麗の官職制度等は独自のものが多く、百済新羅のように中国化されることが少なかった。

高句麗族は最初は半農半猟の貊人系で、その始祖を朱蒙ということから扶余とも深い関係があったと推察される。

また、中国と日本の文献に屡々「高麗」とも記された。

 

 

 

 

 

百済

 

 

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百済とは、朝鮮,古代三国の1つ(4世紀前半~663年)。

日本では「くだら」と呼び習わされているが、「ひゃくさい」と呼ぶのが妥当であろう。

三国志魏志東夷伝によると、古代の朝鮮南部は馬韓辰韓、弁辰(弁韓)の3つに分立していたが、楽浪郡帯方郡の滅亡を機会に4世紀前半頃、馬韓の地から建国したらしい。

百済の歴史が史実の対象となるのは近肖古王(在位346~375年)以後で、北方の高句麗を討って、かつての楽浪、帯方の地にまで侵入したが、その後は高句麗に攻められ南部へ圧迫されたので、東部の新羅や日本と結んだ。

大和政権に対しては種々の文化交流を行って、中国、特に南朝文化を日本に齎した。

高句麗に広開土王が出現してから後退の一路を辿り、蓋鹵王21年(475年)、首都を落とされて国王以下が殺された。

新首都を熊津に移したが、聖王16年(538年)には更に南下して泗沘に移った。

その頃中国では隋、続いて唐が成立したが、新羅は唐と結び、義慈王20年(660年)、2国の連合軍は百済を攻めて義慈王以下一族多数を唐に連行した。

当時の大和政権は水軍を出して救援し、王子や遺臣の鬼室福信らを助けたが、白村江に敗れ大和政権にも昔日の勢力はなく、また百済も内部対立が生じ、百済の祖国回復はならず、豊王3年(663年)、完全に滅亡した。

 

 

 

 

 

新羅

 

 

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新羅とは、朝鮮、古代三国の1つで、朝鮮最初の統一王朝(?~935年)。

「しんら」とも呼ぶ。

三国志魏志東夷伝によれば朝鮮半島南東部には3世紀頃辰韓諸国があったというが、4世紀半ば頃諸般の情勢に促されて、そのなかの1国、斯盧国が中心となり部族連合的国家が成立、同世紀70年代には新羅と称した。

以後、6世紀初頭まで高句麗百済と対立しつつ統一国家形成を図った。

新羅王国の最初の基礎を定めたのは法興王(在位514~540年)で、対外的には任那の中心金官加羅を合せて日本に脅威を与え、中国南朝の梁に朝貢して高句麗に対抗し、国内的には律令や年号を制定して王権の強化を図った。

次の真興王(在位540~576年)は積極的に対外発展を進め百済と戦って聖明王を殺し、また残存任那を562年、打倒して日本の朝鮮支配を阻止した。

王は中国の北斉に直接朝貢してその国家的地位を高めるとともに官制や軍制を整備して中央集権を促進した。

更に武烈王(在位 654~661年)から文武王(在位661~681年)の時代は中国では隋、唐の初期にあたるが、唐と結んで、660年、百済を、668年、高句麗を滅ぼし、更に半島を直接支配下に置こうとする唐に抵抗して唐の勢力を退け、文武王16年(676)年)、半島の事実上の統一を完成した。

武烈王以後約1世紀は新羅の全盛期で、735年には大同江以南の支配を唐に承認させ、領域の拡大を見た。

慶州を首都として全国を9州に分け、郡県の制も一応整理され文運も隆昌を極めた。

しかし、王位の相続に絡む諸種の矛盾は憲徳王 14年(822年)の金憲章の大乱を引き起こし、この反乱を契機として中央の権力は弱化し、地方では豪族が割拠した、所謂「後三国」の対立時代を現出し、927年には後百済の為に景哀王が殺され、敬順王が即位した。

935年、敬順王は最有力の豪族、高麗の太祖王建に投降してその貴族になり、新羅は名実ともに滅亡した。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

日本史の授業でも良く出て来ますね。

個人的には、白村江の戦いが印象に残っています。

白村江の戦いで言うと、百済が少し可哀想に感じますね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!