こんにちは!
今日は、晩清四大名臣について紹介したいと思います!
晩清四大名臣に選ばれたのは、
張之洞(ちょうしどう)
曽国藩(そうこくはん)
李鴻章(りこうしょう)
左宗棠(さそうとう)
の4人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
張之洞
張之洞とは、中国、清末の政治家。
直隷(河北省)南皮の人。
号は香濤。
同治2年(1863年)の進士。
対外強硬論を主張する「清流党」の一員と目されていたが、光緒7年(1881年)、山西巡撫に抜擢され、次いで両広総督(1884~1889年)、湖広総督(1889~1907年)を歴任。
任地の武漢で兵器、製鉄(漢陽)、紡績、製糸等の官営工場を創設、ドイツ式陸軍を編成する等、洋務運動を推進。
また、義和団事変後、李鴻章と共に清朝の重臣となり、光緒33年(1907年)には大学士として中央政府に入った。
戊戌の変法当時には『勧学編』を著わして、徹底的な改革には反対した。
また、彼の鉄道建設策も、中国民族資本を無視する外国借款導入を推進するものであった。
曽国藩
曽国藩とは、中国、清末の政治家。
湖南省湘郷県の人。
字は伯涵。
号は滌生。
諡は文正。
道光18年(1838年)の進士。
翰林院の職を経て、道光27年(1847年)、礼部右侍郎となる。
咸豊2年(1852年)末、母の喪に服する為、帰郷。
その在郷中に捜匪の為の団練組織の命を受け、更に太平天国軍に対抗する為の湘軍を編成して太平天国軍討滅に活躍。
その間、咸豊10年(1860年)に両江総督となり、太平天国滅亡後は、功によって清朝では異例の侯爵に叙された。
後に捻軍征討に失敗し、次第に湘軍を解散した。
直隷総督、両江総督を歴任し、内閣大学士となる。
洋務運動の指導者として著名。
著作集として『曾文正公全集』(174巻)がある。
李鴻章とは、中国、清末の政治家。
字は少荃。
号は儀叟。
諡は文忠。
道光27年(1847年)の進士。
初め翰林院に入り、太平天国軍の南京進出により帰郷、安徽巡撫福済の幕僚となり、咸豊8年(1858年)、湘軍を率いる曽国藩の幕僚となった。
同治1年(1862年)、曽の推挙で江蘇巡撫となり、淮軍を編制して上海救援に活躍。
同治4年(1865年)、両江総督となり、翌年から同治7年(1868年)まで欽差大臣として捻軍討滅にあたった。
後に湖広総督を経て、同治9年(1870年)に直隷総督となり、以後、光緒21年(1895年)まで 25年間その職にあった。
その間ら北洋大臣も兼ねた。
また外交を一手に引き受け、日清戦争後の下関条約では全権大使として調印している。
同治22年(1883年)、使節としてロシアに赴き、同治25年(1886年)、両広総督となり、同 治26年(1887年)、直隷総督に再任されたが、翌年病没。
洋務運動を推進する漢人官僚の第一人者として近代的軍隊の創設、海軍の建設、軍事工業の推進、鉱山の開発、鉄道の敷設等、各方面に活躍。
外交面でも直隷総督就任以降、義和団事変までの殆どの問題に対処した。
主著『李文忠公全書』(165巻)。
左宗棠
左宗棠とは、中国、清末の軍人、政治家。
字は季高。
諡は文襄。
湖南省湘陰県の人。
道光12年(1832年)に挙人となり、中年まで不遇であったが、胡林翼の知遇を得て、咸豊2年(1852年)、太平天国の湖南進出に際し長沙の防衛戦で認められた。
以後、曽国藩の指揮の下に団練を編成、自らの編成になる「楚勇」を率いて湖南、江西、安徽に転戦。
咸豊11年(1861年)、浙江巡撫、同治2年(1863年)、閩浙総督となり、浙江、福建地区の太平軍を鎮圧、曽国藩、李鴻章と並ぶ清朝の重臣となった。
同治5年(1866年)、陝甘総督に転じ、陝西、甘粛のイスラム教徒反乱鎮圧に従事、光緒1年(1875年)以後、欽差大臣として新疆のヤクブ・ベク反乱を鎮圧、光緒3年(1877年)、平定した。
この間ロシアのイリ地区占領(イリ事件)に対して、強硬策を主張した為、光緒6年(1880年)、閑職に移され、翌年、両江総督となり、光緒9年(1883年)、辞した。
清仏戦争に際して、光緒10年(1884年)、福建方面の総司令官として赴任し、翌年、任地で病死。
なお、福州に近代的造船所、蘭州に毛織物工場を創設する等、洋務運動の中心人物の1人でもあった。
如何でしたか?
他にも戊戌の変法や洋務運動といった用語は、世界史で出てくる用語ですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!