こんにちは!
今日は、甲相駿三国同盟について紹介したいと思います!
甲相駿三国同盟とは、天文23年(1554年)に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定の1つで、甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた3者の合意によるものです。
甲相駿三国同盟の3者に選ばれたのは、
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
武田信玄とは、戦国時代の大名。
甲斐守護信虎の長子。
名は晴信。
号は徳栄軒。
法号は法性院信玄。
天文 10年(1541年)、父の信虎を駿河に追放して家督を継ぎ、次いで信濃に攻め入って諏訪頼信、村上義清、小笠原長時らを攻略し、同 22~永禄7年(1564年)に越後の上杉謙信と川中島で合戦。
同 11年には今川氏真を追放して駿河を押さえ、大領国を形成した。
元亀3年(1572年)には大軍を率いて西上、織田信長、徳川家康の連合軍を遠江三方ヶ原に破り、元亀4年(1573年)、三河に侵攻したが、病を得て陣没。
北条氏康とは、戦国時代の大名。
後北条氏3代目。
氏綱の嫡子。
名は新九郎。
室は今川氏親の娘。
天文 10年(1541年)、父の跡を継いで小田原城に住し、同 14年、駿河に出陣、今川義元、上杉憲政らと戦い、翌 15年には武蔵に出撃して、足利晴氏、上杉朝定、同憲政らの連合軍を破り松山城を攻略。
同 20年、晴氏、両上杉の軍を武蔵河越に破り、同 23年、武田信玄、今川義元と同盟を結び、古河公方足利晴氏を攻めた。
永禄4年(1561年)には、小田原城を攻めた上杉謙信を戦わずして退かせ、後北条氏の全盛期を築いた。
室町幕府創業以来の功臣として、東海地方に重きをなした名門今川氏の嫡流氏親の第3子。
母は大納言中御門宣胤の娘。
初め出家して雪斎に付き、富士郡善徳寺黙然和尚の弟子となる。
天文5年(1536年)、長兄氏輝の死後、継嗣問題で争い、次兄僧恵深(志太郡遍照光院住職)を敗死させ、還俗して家督を継いだ。
従四位下、治部大輔、駿河守に進み、老臣雪斎(太原崇孚)を重用して遠江、三河の制圧から更に西方への進出に力を入れた。
同 11年、三河に侵入した尾張の織田信秀の軍を小豆坂に破り、同 18年には三河岡崎の松平氏を助け、安祥城を攻略して織田信広を捕虜とし、先に織田氏の人質となっていた松平竹千代(後の徳川家康)と交換して一時竹千代を岡崎に帰したが、翌年には今川氏の人質として駿府にとり、三河を勢力下に置いた尾張の織田方と交戦を続けた。
同 22年、三河侵攻の隙に駿河を北条氏康に侵されたが、これには義元と姻戚関係にあった武田信玄があたった。
次いで義元、信玄、氏康の3者は善徳寺に会盟して和睦し、互いに姻戚関係を結んだ。
ここに義元は東方の憂いを除き、以後は尾張への進出を図ることになった。
雪斎の死後、弘治2年(1556年)、義元は織田氏の策謀によって賢臣の日下部政直を殺害した後、永禄3年(1560年)、上洛を目指して大軍を率い尾張に進入し、沓掛、丸根、鷲津の諸砦を攻め落したが、5月、桶狭間近くの田楽狭間で織田信長に急襲され、軍勢混乱の中で信長の臣である服部小平太、毛利秀高に打ち取られた。
その後、今川氏は急速に衰えていった。
法諡は天沢寺秀峰哲公。
如何でしたか?
大河ドラマ『風林火山』では、この同盟を結ぶシーンがありましたね。
この3人がそれぞれ生きていたら、織田信長や豊臣秀吉の全国統一は無かったかもしれないですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!