こんにちは!
今日は、世界三大英雄について紹介したいと思います!
世界三大英雄に選ばれたのは、
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
フルネーム Gaius Julius Caesar。
英語名ジュリアス・シーザー。
民衆派(ポプラレス)に属し、青少年時ルキウス・コルネリウス・スラの全盛時代であった為、各地を転々とし、前78年、スラの死を聞いてローマに帰り、前77年以後、政界に入った。
ロドスで修辞学を学び、前68年、財務官(クアエストル)、前65年、按察官(アエディリス)を経て、前63年、大神官に当選。
その選挙費用の為、ローマ最大の債務者となった。
前61年、ヒスパニア総督、翌年、ローマに帰ってポンペイウス(大ポンペイウス)、マルクス・リキニウス・クラッススと第1次三頭政治を形成、前59年、執政官(コンスル)となり、市民への土地配分等、政治的手腕を発揮した。
前58年からガリア遠征に向かい、ガリア・トランサルピナの諸部族を平定、前52年、ウェルキンゲトリクスの大反乱をも鎮圧、ローマのガリア支配を確立するとともに、今後の活動に必要な優秀な軍隊と豊富な資金を取得した。
前54年、カエサルの娘でポンペイウスの妻ユリアが死に、前53年、クラッススがパルティア帝国と戦って敗死すると、三頭政治に代わってカエサルとポンペイウスの対立となった。
前49年、閥族派(オプチマテス)がポンペイウスと組んでカエサル召還を元老院で決議した為、カエサルはルビコン川を渡ってローマに進撃。
ポンペイウスはギリシアに逃れ、カエサルはまずヒスパニアを討ち、前48年、ギリシアに渡り、ファルサルスの戦いでポンペイウスを破った。
エジプトに逃れたポンペイウスを追ったカエサルは、プトレマイオス朝の内紛に介入して、クレオパトラ7世と結ばれ、彼女を女王とした。
前47~前45年にはポントス、アフリカ、ヒスパニアに転戦、ポンペイウス派の残党を撃滅してローマに帰還し、盛大な凱旋式を行った。
前46年に共和政の伝統に反して 10年任期の独裁官(ディクタトル)となる。
前44年に終身の独裁官となり、監察官(ケンソル)職を取得して元老院に腹心の者を無制限に入れ、その数 900人に及んだ。
反対者には仁慈を持って接し、独裁者として多岐に渡る立法活動を行い、救貧事業、植民市建設、暦法改革等を実施。
属州総督の任期の限定、弊害の多かったアシア州と恐らくその他の州の徴税請負制度の廃止、税額の軽減を行った。
しかし、カエサルの強大な実権は王政実現への危惧を引き起こし、遂に共和派のマルクス・ユニウス・ブルーツスらによって元老院議事堂で暗殺された。
共和派の意図に反して民衆はカエサルの死を悼み、養子とされたオクタウィアヌス(アウグスツス)が彼の跡を継ぐことになる。
雄弁、文筆にも卓越し、『ガリア戦記』『内乱記』等を著している。
王にはならなかったが、カエサルの名称より皇帝を意味するドイツ語のカイザー、ロシア語のツァーリが生じた。
ナポレオン・ボナパルトとは、フランス第一帝政の皇帝(在位1804~1814年、1815年)。
生粋のコルシカ人貴族の子。
フランスで教育を受け、1785年、パリ士官学校を卒業。
コルシカ独立運動に参加したが指導者パオリと衝突し、1793年、一家をあげてフランスに亡命,
同1793年、ニースの連隊に復帰した。
この頃からナポレオン・ボナパルトと呼ばれるようになった。
同1793年8月、国民公会軍の砲兵隊の指揮官に任命され、12月、反革命派の手中にあったツーロン港の砲撃を指揮して奪回に成功し、准将に昇進。
1796年3月、イタリア遠征軍司令官となる。
同1796年3月9日、ジョゼフィーヌと結婚。
カンポフォルミオ条約によってイタリアで5年間続いた戦争は収拾され、ナポレオンの人気は頂点に達した。
1798年7月、エジプトに遠征、1799年11月、エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスと結んでブリュメール十八日のクーデターを断行し執政政府を樹立、軍事独裁を始めた。
1804年5月に帝国成立が宣言されると皇帝に即位。
以後、産業振興、学制改革、行政、司法の再編成等を行った。
1807~1810年頃、相次ぐ対外戦争の勝利によってその威信と権力は頂点に達したが、1812年のロシア遠征の失敗によって諸国民戦争が勃発。
1813年、ライプチヒの戦いの敗北で没落は決定的となり、1814年5月、エルバ島に流された。
島を脱出し、1815年3月、上陸、再びヨーロッパ連合軍と対抗、ベルギーに進撃し、6月、リニーでプロシア軍を撃破したが、ワーテルローでイギリス軍と戦って敗れ、セントヘレナ島に流されて同地で没した。
織田信長とは、戦国時代の武将。
信秀の子。
幼名は吉法師または三郎。
元服して信長。
天文 20年(1551年)、父の信秀が没して家督を相続して以来、一族内部の抗争に奔走、永禄2年(1559年)には岩倉城の織田信賢を破り、尾張一国を統一、次いで駿河の今川義元を桶狭間で奇襲して敗死させた。
その後、三河の徳川家康と同盟して後顧の憂いを除き、美濃に進出を企て、永禄 10年(1567年)、斎藤龍興を滅ぼして美濃を降し、稲葉山城を岐阜と改名して、尾張清洲より移った。
翌11年、足利義昭を奉じて上洛、義昭を将軍職に就けたが、後に義昭が信長の勢力拡大を喜ばなかった為、元亀2年(1571年)、信長は義昭に内通していた比叡山の焼き打ちを決行した。
天正1年(1573年)には朝倉氏、更に浅井氏を滅ぼし、義昭を河内に追放して室町幕府を滅亡させ、天正3年(1575年)、武田勝頼を三河長篠に破り、翌年には近江安土に築城した。
やがて、中国経略を志して毛利氏と対立したが、一方では石山本願寺を降伏させて畿内一円を支配。
天正 10年(1582年)には甲斐武田氏を滅ぼし、信濃の北口を平定。
しかし、同年6月2日、本能寺の変で明智光秀のために殺され、その統一事業は中絶した。
如何でしたか?
英雄と言われているものの、最期はあまり良い形では無いですね。
権力を持ちすぎてしまうと、人から恨まれることも多くなり、良い最期を迎えられないかもしれないですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!