こんにちは!
今日は、日本三大遺訓に選ばれたのは、
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
徳川家康とは、江戸幕府初代将軍「在職 1603~1605年)。
母は水野右衛門大夫忠政の娘。
幼名は竹千代、初名を元信、後に元康と言った。
院号は安国院。
織田信秀、次いで今川義元の人質となったが、永禄3年(1560年)、義元が桶狭間の戦いで敗死すると、岡崎に帰り、織田信長とも親交を結び戦国大名として成長。
豊臣秀吉の天下統一に協力、五大老の筆頭として重きをなしたが、秀吉の死後、石田三成と反目して慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに三成を破って、天下の覇権を握った。
慶長8年(1603年)2月 12日、征夷大将軍宣下。
同10年、将軍職を子の秀忠に譲って大御所として駿河に引退したが、なお幕政を後見した。
大坂冬・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、幕府の基礎を築いた。
頼房の3男。
母は谷氏。
幼名は千代松。
字は子龍。
号は梅里。
諡は義公。
寛文1年(1661年)、初代頼房より家督相続。
以後、民政を重視し勧農策の実施や士風の高揚を図り、社寺をき厳しく統制。
また、学問を好み、明の遺臣朱之瑜(舜水)を招いて師事した。
特に大義名分を明らかにすることに努め、明暦3年(1657年)、修史に志して江戸駒込の下屋敷に史館を設けた。
後に小石川に移して彰考館と名付け『大日本史』の編纂に努力。
修史事業は死後も続けられ、後に水戸学の源流をなした。
伊達政宗とは、安土桃山、江戸時代初期の武将。
仙台藩の藩祖。
輝宗の長子。
幼名、梵天丸。
天正12年(1584年)10月、家督を継ぎ、同16年、佐竹義重、蘆名義広、相馬義胤らと対戦、翌17年、蘆名義広を破り、黒川城に拠って陸奥、出羽を平定したが、同18年、豊臣秀吉に降伏して、会津、岩瀬、安積郡等を没収された。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いには徳川方に属して上杉景勝と戦い、同8年、居城を仙台に移し、仙台藩 62万石の基礎を築いた。
大坂の陣にも徳川方として参戦、秀忠、家光の信任を得た。
同18年、家臣支倉常長をローマに派遣したことは有名である。
隻眼であった為、独眼竜と言われた。
如何でしたか?
どの人物も、歴史好きの中では有名な人物ですね。
遺訓が有名になるというのは、後世に渡って尊敬されて来た何よりの証拠ですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!