こんにちは!
今日は、水戸の三名君について紹介したいと思います!
水戸の三名君に選ばれたのは、
徳川光圀(とくがわみつくに)
徳川斉昭(とくがわなりあき)
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
頼房の3男。
母は谷氏。
幼名は千代松。
字は子龍。
号は梅里。
諡は義公。
寛文1年(1661年)、初代頼房より家督相続。
以後、民政を重視し勧農策の実施や士風の高揚を図り、社寺を厳しく統制。
また、学問を好み、明の遺臣朱之瑜(舜水)を招いて師事した。
特に大義名分を明らかにすることに努め、明暦3年(1657年)、修史に志して江戸駒込の下屋敷に史館を設けた。
後に小石川に移して彰考館と名付け、『大日本史』の編纂に努力。
修史事業は死後も続けられ、後に水戸学の源流をなした。
治紀の3男。
幼名は虎三郎、敬三郎。
字は子信。
号は景山、潜龍閣。
諡は烈公。
少年時代に会沢正志斎(会沢正)等の指導を受け、文政12年(1829年)、水戸藩主となる。
朱子学的、尊攘的行動が多かった。
藤田東湖らを登用して藩政の刷新を図り、藩校弘道館を設立した他、反射炉を那珂湊に設けて鉄砲を鋳造する等、藩政改革に努力した。
しかし、これら斉昭の活動は尊攘的行動と見なされ、幕臣鳥居耀蔵らの排撃にあって、弘化1年(1844年)5月、隠居謹慎を命じられ一時幽閉された。
嘉永2年(1849年)3月、幽閉を解かれ幕政に参与してからは将軍継嗣問題で大老井伊直弼と対立し、安政6年(1859年)、8月水戸に永蟄居を命じられた。
徳川慶喜とは、江戸幕府15代将軍(在職1866~1868年)。
徳川斉昭の7男。
母は有栖川宮王女登美宮吉子。
幼名は七郎麿。
弘化4年(1847年)、一橋家を相続。
将軍徳川家定の死後、14代将軍の継嗣を巡って慶福(後の徳川家茂)を擁立する井伊直弼ら紀伊派と対立したが敗れた。
安政の大獄に際しては隠居謹慎を命じられたが、井伊の死後、将軍後見役となった。
家茂の死後、慶応2年(1866年)12月5日、将軍宣下。
内政、外交にあたり、フランス公使レオン・ロッシュの助言を入れて幕政の改革を行い薩長と対抗したが、同3年10月14日に政権の朝廷への返還を上表、翌15日に大政奉還の勅許を得た。
しかし、12月9日、討幕派とその同調者が優勢な御前会議で王政復古の大号令が発せられた。
同4年1月、鳥羽・伏見の戦いで敗北を喫し、朝廷に恭順。
1902年、公爵、1908年、勲一等旭日大綬章。
如何でしたか?
水戸藩で有名な3人ですね。
いずれにせよ、水戸藩からは優秀な人物が多く輩出されている傾向がありますね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!