こんにちは!
今日は、江戸初期の三名君について紹介したいと思います!
江戸初期の三名君に選ばれたのは、
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
池田光政とは、江戸時代初期の大名。
輝政の孫。
利隆の嫡男。
母は徳川秀忠の養女。
初名は幸隆、後に将軍家光の偏諱を賜わって光政と改名。
通称は新太郎。
諡号は芳烈公。
元和2年(1616年)、遺領播磨一国を継ぎ、翌3年、因幡伯耆32万石に転封され、鳥取城に拠った。
同9年、備前岡山を領し、侍従を経て従四位下左近衛権少将に叙任。
寛文12年(1672年)6月、致仕。
この間藩政を取り、名君と謳われた。
天災、飢饉に備えて殖産興業に努め、治水、開墾、農事の改良を進め、同11年には社倉法を設けた。
また、学問、文化の興隆にも意を注ぎ、熊沢蕃山を登用し、寛永18年(1641年)、花畠教場、寛文10年(1670年)、閑谷学校、延宝2年(1674年)、聖堂などを創建した。
『池田光政日記』(1637~1669年)の他、編著に『三書要語解』、合著に『帝鑑評』がある。
保科正之とは、江戸時代初期の大名。
幼名は幸松丸。
3代将軍徳川家光の異母弟。
4代将軍徳川家綱の補佐として、幕政に参与した。
著書『輔養編』『二程教録』『会津家訓』。
頼房の3男。
母は谷氏。
幼名は千代松。
字は子龍。
号は梅里。
諡は義公。
寛文1年(1661年)、初代頼房より家督相続。
以後、民政を重視し勧農策の実施や士風の高揚を図り、社寺を厳しく統制。
また、学問を好み、明の遺臣朱之瑜(舜水)を招いて師事した。
特に大義名分を明らかにすることに努め、明暦3年(1657年)、修史に志して江戸駒込の下屋敷に史館を設けた。
後に小石川に移して彰考館と名付け『大日本史』の編纂に努力。
修史事業は死後も続けられ、後に水戸学の源流をなした。
如何でしたか?
3人とも日本史の教科書に登場していますね。
確かに、3人とも政治的に優れていた印象がありますね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!