こんにちは!
今日は、後の三房について紹介したいと思います!
後の三房とは、鎌倉時代末期より南北朝時代にかけて、後醍醐天皇の側近として仕えた3人のことです。
後の三房に選ばれたのは、
北畠親房(きたばたけちかふさ)
万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)
吉田定房(よしださだふさ)
の3人です。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
正二位大納言。
師重の子。
後醍醐天皇に仕え、世良親王の養育にあたったが、元徳2年(1330年)、親王の薨去により出家して宗玄(後に覚空)と号した。
建武中興が成ると再び出仕し、元弘3年=正慶2 年(1333年)、長子の顕家と共に義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥へ下向、翌年、上洛した。
延元1年=建武3年(1336年)8月、足利尊氏の奏請により豊仁親王(光明天皇)が践祚した為、親房は後醍醐天皇を大和吉野に奉じて南朝を立てた。
延元3年=暦応1年(1338年)、義良親王の東下に従い、常陸小田城に拠って北軍と戦い、城中で『神皇正統記』を著わした(1339年)。
同地方の経営に努めたが、北軍に敗れ、興国4年=康永2年(1343年)、再び吉野に戻り、南朝の中心人物として活躍した。
伊勢神道にも造詣が深かった。
『職原抄』『元元集』等の著書がある。
藤原宣房とも言う。
資通の子。
文永8年(1271年)、従五位下。
蔵人頭等を経て、嘉元3年(1305年)、参議、後二条天皇の崩御とともに官を辞したが、後醍醐天皇が即位すると登用され権中納言となる。
正中の変落着の功により権大納言となったが、元弘1年(1331年)、笠置落城後、一時官位を奪われた。
建武政権には雑訴決断所の頭人として参画、延元1年=建武3年(1336年)、出家。
日記『万一記』がある。
経長の子。
元弘の討幕計画を幕府に漏らしたが、建武政府には再び重用されて内大臣、民部卿となり、足利尊氏の反乱後、吉野に走って南朝に仕えた。
如何でしたか?
北畠親房は知っていましたが、残りの2人はあまり知りませんでした。
歴史の授業では、勝者である北朝の方が取り上げられますが、南朝の歴史を勉強するのも面白いかもしれないですね。
最後までお読み頂き有難う御座いました!