こんにちは!
三国司(戦国三国司)とは、戦国時代の公卿のうち、実際に受領した知行国で国司として赴いたとされる3家のことです。
姉小路氏(あねがこうじし)
一条氏
北畠氏
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
姉小路氏
姉小路氏とは、藤原氏北家小一条流、師尹の子孫の家綱が、南北朝時代に飛騨国司に任ぜられた一流。
飛騨国司家とも言う。
北畠(伊勢)、一条(土佐)氏と並んで三国司家と言われる。
代々公卿にも列し京都と往来した。
戦国時代、同国小島城により活躍したが、自綱は織田信長、豊臣秀吉に抗し、1585年(天正13年)、秀吉の将金森長近に攻められ滅亡した。
一条氏
鎌倉時代の初め、実経が父九条道家から所領と邸宅を譲られたことから始まる。
この邸宅が一条室町にあったことから一条殿と言われ、家名となった。
代々摂政、関白に任ぜられ、近衛家、九条家等と共に、公家でも重きを置いた。
室町中期の兼良は学者としても名高い。
兼良の長子教房は戦乱を避け、家領土佐国(高知県)幡多荘に下り、その子孫は土佐国司を兼ねて、土佐一条家と言われ、戦国大名化したが、長宗我部氏に滅ぼされた。
京都では教房の弟冬良が継いだ。
兼良の子で興福寺大乗院門跡に入った尋尊も有名である。
近世初めには、後陽成天皇の皇子兼遐(昭良)を迎え、家名を存続した。
北畠氏
北畠氏とは、鎌倉・南北朝時代の公卿。
姉小路氏(飛騨)、一条家(土佐)と並んで三国司家と言われた。
村上源氏の流れで、5代源通親の孫、中院雅家が、京都の居住地によって北畠を家名とした。その曽孫、親房は後醍醐天皇に重用されて大いに家名を挙げ、親房の子、顕家と共に南北朝時代に南朝の重臣として活躍し、親房は後村上天皇から准后の宣を受けた。
親房の子、顕能は南朝から伊勢国司に任じられ、一志郡多気城を築いて南朝方として活躍し、以後、子孫は伊勢国司を世襲した。
顕能の孫、満雅は、1428年(正長1年)、南朝の後胤小倉宮を奉じて挙兵し、敗死している。
大河内氏等、一族も伊勢国内に多く、戦国末期まで勢力を維持したが、1576年(天正4年)、織田信長に滅ぼされた。
如何でしたか?
国司としては、3家とも滅亡しているのですね。
中々、難易度が高く、苦労していた印象です。
最後までお読み頂き有難う御座いました!