いつか役に立つかもしれないムダ知識

生きていく上では必要ではない雑学や知識を投稿していきます。クイズなどにも役立つかもしれません。

三国司(戦国三国司)って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、三国司(戦国三国司)について紹介したいと思います!

国司(戦国三国司)とは、戦国時代の公卿のうち、実際に受領した知行国国司として赴いたとされる3家のことです。

 

国司(戦国三国司)に選ばれたのは、

姉小路氏(あねがこうじし)

一条氏

北畠氏

の3つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

姉小路

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210426080115p:image

 

 

姉小路氏とは、藤原氏北家小一条流、師尹の子孫の家綱が、南北朝時代飛騨国司に任ぜられた一流。

飛騨国司家とも言う。

北畠(伊勢)、一条(土佐)氏と並んで三国司家と言われる。

代々公卿にも列し京都と往来した。

戦国時代、同国小島城により活躍したが、自綱は織田信長豊臣秀吉に抗し、1585年(天正13年)、秀吉の将金森長近に攻められ滅亡した。

 

 

 

 

 

一条氏

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210426080158j:image

 

 

一条氏とは、藤原氏北家、五摂家の1つ。

鎌倉時代の初め、実経が父九条道家から所領と邸宅を譲られたことから始まる。

この邸宅が一条室町にあったことから一条殿と言われ、家名となった。

代々摂政、関白に任ぜられ、近衛家九条家等と共に、公家でも重きを置いた。

室町中期の兼良は学者としても名高い。

兼良の長子教房は戦乱を避け、家領土佐国高知県)幡多荘に下り、その子孫は土佐国司を兼ねて、土佐一条家と言われ、戦国大名化したが、長宗我部氏に滅ぼされた。

京都では教房の弟冬良が継いだ。

兼良の子で興福寺大乗院門跡に入った尋尊も有名である。

近世初めには、後陽成天皇の皇子兼遐(昭良)を迎え、家名を存続した。

明治天皇の皇后(昭憲皇太后)は忠香の三女である。

明治維新後、華族に列し公爵を授けられた。

 

 

 

 

 

北畠氏

 

 

f:id:mudachishiki4510:20210426080229p:image

 

 

北畠氏とは、鎌倉・南北朝時代の公卿。

姉小路氏(飛騨)、一条家(土佐)と並んで三国司家と言われた。

村上源氏の流れで、5代源通親の孫、中院雅家が、京都の居住地によって北畠を家名とした。その曽孫、親房は後醍醐天皇に重用されて大いに家名を挙げ、親房の子、顕家と共に南北朝時代南朝重臣として活躍し、親房は後村上天皇から准后の宣を受けた。

親房の子、顕能は南朝から伊勢国司に任じられ、一志郡多気城を築いて南朝方として活躍し、以後、子孫は伊勢国司を世襲した。

顕能の孫、満雅は、1428年(正長1年)、南朝の後胤小倉宮を奉じて挙兵し、敗死している。

大河内氏等、一族も伊勢国内に多く、戦国末期まで勢力を維持したが、1576年(天正4年)、織田信長に滅ぼされた。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

国司としては、3家とも滅亡しているのですね。

私は、信長の野望一条家を知りました。

中々、難易度が高く、苦労していた印象です。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!