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南朝四代って誰?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、南朝四代について紹介したいと思います!

 

南朝四代に選ばれたのは、

後醍醐天皇

後村上天皇

長慶天皇

後亀山天皇

の4人です。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

後醍醐天皇

 

 

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後醍醐天皇とは、第96代の天皇(在位1318~1339年)。

名は尊治。

後宇多天皇の第2皇子。

母は談天門院忠子(参議藤原忠継の娘)。

文保2年(1318年)、即位。

後宇多法皇院政のもとにあったが、元亨1年(1321年)から院政を廃して天皇親政を復活した。

まず、吉田定房北畠親房らの人材を集め、記録所を再興し、政治の改革に努めた。

しかし、天皇政治を阻む根源が鎌倉幕府にあることを痛感すると、日野資朝、俊基らの公卿と共に討幕計画を進めた。

正中の変元弘の乱と2度とも失敗に終わり、元弘2年=正慶1年(1332年)、隠岐に流されたが、後に隠岐を脱出して伯耆に移り、幕府が滅亡すると京都に帰還し、建武中興が開始された。

しかし、足利尊氏の離反で挫折して天皇は吉野に逃れた。

建武年中行事』『建武日中行事』の著がある。

陵墓は奈良県吉野郡吉野町の塔尾陵。

 

 

 

 

 

後村上天皇

 

 

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後村上天皇とは、第 97代の天皇(在位1339~1368年)。

南朝第2代の天皇

名は義良。

後醍醐天皇の皇子。

母は新待賢門院藤原廉子(阿野公廉の娘)。

元弘3年=正慶2年(1333年)、北畠顕家陸奥に赴き、建武中興政府の東北鎮護にあたった。

建武2年(1335年)、足利尊氏追討の為、上洛わ再び顕家と共に東下、陸奥太守となった。

延元2年=建武4年(1337年)、顕家と西上、各地に転戦した。

延元4年=暦応2年(1339年)、後醍醐天皇の後を受け践祚、吉野を皇居としたが、正平3年=貞和4年(1348年)、高師直の攻撃で賀名生に移った。

正平7年=文和1年(1352年)、尊氏の帰順で一時入京したが、間もなく尊氏の叛により賀名生に帰り、その後、摂津住吉に移った。

京都を回復してもすぐ奪回されて京都に還幸することができず、苦難の多い悲劇的な生涯であった。

御製の一部は『新葉和歌集』に収められている。

陵墓は大阪府河内長野市の檜尾陵。

 

 

 

 

 

長慶天皇

 

 

長慶天皇とは、第 98代、南朝第3代の天皇(在位1368~1383年)。

名は寛成。

後村上天皇の第1皇子。

母は中宮嘉喜門院藤原勝子。

正平3年=貞和4年(1348年)、父帝と共に穴生 に移り、その後も行宮を転々とし、正平23年=応安1年(1368年)、父帝の死没の後を受けて践祚

次いで同母皇弟煕成親王を皇太弟とし、弘和3年=永徳3年(1383年)から翌年の元中1年=至徳1年(1384年)の間に皇太弟、即ち後亀山天皇に譲位した。

天皇の即位については古来疑問があり、『大日本史』は在位説、塙保己一は非在位説をとって明治に及んだが、八代国治の研究により、1926年、皇統に加列された。

学を好み『源氏物語仙源抄』を著わし、諸書の研鑽に努めた。

また、『新葉和歌集』は天皇の準勅撰。

陵墓は京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町の嵯峨東陵。

 

 

 

 

 

後亀山天皇

 

 

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後亀山天皇とは、第99代の天皇(在位1383~1392年)。

南北朝時代南朝方最後の天皇

名は煕成。

後村上天皇の皇子。

母は嘉喜門院藤原勝子。

弘和3年=永徳3年(1383年)、即位。

当時、南朝方の勢威は地に落ち、最早回復の期待も失われ、朝廷では和平派が力を得、北朝方も多年の兵乱に苦しみ和平を望んでいた。

元中9年=明徳3年(1392年)、足利義満の側から和平の勧説があり、南朝の正統性の承認、以後の両統迭立等を条件として両朝の合一が図られた。

よって、天皇は吉野より京都へ還幸、神器を北朝後小松天皇に伝え、南北朝合一が実現した。

天皇太上天皇の尊号を受け、嵯峨大覚寺を仙洞として住した。

しかし、義満の没後、武家側の待遇も悪く、和平条件は履行されず、応永17年(1410年)、吉野に出奔、次いで伊勢国司の北畠満雅の挙兵もあり、南朝再興の動きも盛んとなったが、同22年、和議が成立し、翌年、幕府の請によって帰洛した。

陵墓は京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町の嵯峨小倉陵。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

南北朝時代における南朝天皇4人ですね。

後醍醐天皇以外は、あまり有名では無いですが、それぞれ南朝での苦労があるようですね。

また、これら4人を含む大覚寺統は、亀山天皇で始まり、後亀山天皇で終わるという覚えやすい流れになっていますね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!