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江戸四宿って何?

 

 

 

こんにちは!

 

 

今日は、江戸四宿について紹介したいと思います!

江戸四宿とは、江戸時代に五街道の各々について江戸・日本橋に最も近い宿場町の総称です。

 

江戸四宿に選ばれたのは、

千住宿

板橋宿

内藤新宿

品川宿

の4つです。

 

それぞれ簡単に紹介したいと思います!

 

 

千住宿

 

 

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千住宿とは、現在の東京都足立区南部から荒川区北部にかけて形成された日光道中の第1宿。

江戸四宿の1つ。

千住は古くから荒川(現在の隅田川)北岸の交通の要地で、1594年に千住大橋が架けられ、1625年、宿に指定された。

江戸日本橋からは2里8町、次宿の草加宿(現、埼玉県草加市)まで同じく2里8町。

水戸佐倉道や下妻道が当宿で分岐、水戸佐倉道の新宿(現、葛飾区)や岩槻道(赤山街道)の舎人(現、足立区)等にも継ぎ送った。

宿場は初め千住1丁目〜同5丁目(現、足立区)の5町、後に南に続く掃部宿(河原町・橋戸町を含む、現、足立区)、次いで荒川南岸の小塚原町・中村町(現、荒川区)が加えられ、計10町となる。

千住1丁目〜5丁目を本宿又は千住北組、河原町・橋戸町を含む掃部宿を新宿又は千住中組、小塚原町・中村町を千住南組と言った。

宿建人馬は50人・50匹。

1843年には旅籠屋55軒、宿内の家数2370・人数9000余り、本陣・脇本陣各1。

南組の旅籠屋を中心に食売女(飯盛女)が置かれ(公許150人)、遊里としても機能。

また、近郊農村と江戸市中を繋ぐ流通拠点の役割も果たし、青物市場が河原町に立ち、地廻り米を扱う米穀問屋も多かった。

 

 

 

 

 

板橋宿

 

 

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板橋宿とは、現東京都板橋区の東部に形成された中山道の第1宿で、下板橋村内に成立したので下板橋宿ともいう。

江戸四宿の1つ。

日本橋からは2里半、次宿の蕨宿まで2里10町。

宿建人馬は50人・50匹。

地名の由来となった石神井川に架かる板橋を中心に発達。

橋の北西側が上宿(現、本町)、南東側が中宿(現、仲宿)で、中宿の更に南東に平尾宿(現板橋1丁目〜3丁目)が続き、この3宿で宿役を負担。

宿の東側は加賀金沢藩の下屋敷であった。

1843年には旅籠屋54軒、家数573・人数2448。

本陣は中宿にあり、脇本陣は上・中・平尾の各宿に1軒ずつ。

食売女(飯盛女)150人を公許されていたが、他の3宿(品川宿内藤新宿千住宿)に比べ、遊興地としては寂れていた。

 

 

 

 

 

内藤新宿

 

 

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内藤新宿とは、現在の新宿区南部に形成された甲州道中の第1宿。

江戸四宿の1つ。

宿西端の追分で青梅街道が分岐。

1697年、江戸浅草阿部川町名主喜兵衛等、5人が幕府に宿の開設を願出、1698年に許可され、翌1699年から伝馬業務を開始。

信濃高遠藩主内藤家の下屋敷の一部を割いて新しい宿が成立したので内藤新宿の名があるという。

江戸日本橋からは2里、次宿は上・下の高井戸宿で、下高井戸宿までは2里、上高井戸宿まで2里余り。

他に青梅街道中野村(現、中野区)等にも継ぎ送った。

1718年に宿は一旦廃止となり、1772年に再開。

廃止となった理由は、旅籠屋に食売女(飯盛女)を置いて遊里化し、享保改革の風紀粛正に抵触したから、甲州道中の利用者が少なかったから等、諸説がある。

宿場は東の四ッ谷大木戸寄りから下町・仲町(中町)・上町に分かれ、問屋場は時代によってこの3町の間で動いた。

宿建人馬は25人・25匹。

茶店・商家等も多く、再開後は150人の食売女を抱えることが公許されたが、実数はこれよりも多く、文化年間(1804年〜1818年)には吉原や品川宿をも凌ぐ賑わいとさえ言われた。

1843年には旅籠屋24軒・家数698・人数2377、本陣は仲町にあるが、脇本陣は無かった。

 

 

 

 

 

品川宿

 

 

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品川宿とは、近世東海道の第1宿で、江戸四宿の1つ。

現在の東京都品川区北東部、目黒川の河口付近に発達。

同地は中世既に品川湊として発展していたが、徳川家康による伝馬・宿駅制度の整備に伴い、1601年頃に正式に東海道の第1宿となる。

江戸日本橋からは2里、次宿の川崎宿まで2里半。

宿建人馬は100人・100匹。

当初は目黒川北岸の北品川宿と南岸の南品川宿の2宿で伝馬役を勤めていた。

その後、北品川宿の北に続く一帯にも水茶屋等が立ち並ぶようになり、品川新町と呼ばれて遊里化。

宿役負担と引換えに食売女(飯盛女)を置くことを許されていた南北両宿はこれを非法と訴える。

1722年、毎年歩行人足1万2000人を負担することで品川新町が品川宿に加えられ、歩行新宿と呼ばれるようになった。

その後はこの3宿で宿役を負担。

江戸の庶民が宿近辺の牛頭天王社・東海寺・品川寺・海晏寺や少し離れた川崎大師・目黒不動等への参詣の折に立ち寄る行楽地、また準公認の遊所としても賑わい、北の吉原、南の品川と称された。

明和年間(1764年〜1772年)以降食売女は公許500人、旅籠屋は最盛期180軒を数えた。

1843年には旅籠屋93軒・家数1561・人数6890。

本陣は北品川宿にあり、南品川宿と歩行新宿に脇本陣があった。

 

 

 

 

 

如何でしたか?

 

現在の北千住、新宿、品川と東京都でもターミナル駅として有名になっていますね。

このような主要駅を歴史の観点から散策してみるのも面白いかもしれないですね。

 

 

最後までお読み頂き有難う御座いました!