こんにちは!
今日は、幕末江戸三大道場について紹介したいと思います!
幕末江戸三大道場に選ばれたのは、
の3つです。
それぞれ簡単に紹介したいと思います!
士学館とは、幕末、江戸における三大道場の1つ、鏡新明智流桃井春蔵の道場。
初代八郎左衛門直由が江戸の茅場町に初めて道場を開いたのは安永2年(1773年)であった。
2代春蔵直一は、京橋大富町に道場を新築し、士学館と称した。
4代春蔵直正の時代に入ると、俄かに同流の声価を高め、門人も急増した。
直正は沼津藩士田中重郎左衛門豊秋の二男で、24歳の若さで皆伝を受け、人物、技術ともに優れ、諸大名の撃剣試合に招かれ、千葉栄次郎、斎藤新太郎と並んで、世人から「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評された。
門人には、塾頭を勤めた武市半平太をはじめ、梶川義正、逸見宗助、上田馬之助、坂部大作、久保田晋蔵、兼松直廉らの名剣士を輩出した。
玄武館とは、幕末の江戸三大道場の1つ。
北辰一刀流千葉周作成政が、1822年(文政5年)の秋、江戸日本橋品川町に創立して評判を取った。
門人の急増により手狭となった為、1825年秋に、神田お玉が池の儒者東条一堂の瑶池塾に隣接する旗本某の邸跡を買い求め、更に一堂の没後、これを合併してその規模は江戸町道場随一と言われた。
1851年(嘉永4年)、浅草観音に奉額を行った際には、一族一門合わせて3000余名を数えたと言う。
練兵館とは、幕末、江戸における三大道場の1つ。
神道無念流斎藤弥九郎善道の道場で、北辰一刀流千葉周作の玄武館、鏡新明智流桃井春蔵の士学館と並び称された。
1820年(文政3年)、恩師岡田十松吉利の没後、弥九郎は嗣子利貞を補佐して道場撃剣館の経営に専念してきたが、6年後の1826年春、同門の江川太郎左衛門英龍らの援助で独立し、九段坂下俎橋畔に錬兵館を起こした。
館名は、兵学の師である平山子龍の屋号「錬武堂」に因んで命名されたものと言う。
1838年(天保9年)、飯田町の火事で道場は類焼の厄にあったが、再度江川らの援助で坂上の麹町三番丁(現在、靖国神社境内)に移転し、再建に尽力した結果、次第に剣名も高まり、1841年水戸弘道館の落成式に招かれ、百合元昇三ら門人を率いての撃剣指南に成功し、一躍有名となった。
また長男の新太郎、三男の歓之助共に資質に恵まれて若手名剣士の評判が高く、全国から入門、入塾者が集まった。
如何でしたか?
歴史好きでも、中々知らない道場と人物かもしれないですね。
私は、『剣豪3』というゲームをプレイしていて、千葉周作、斎藤弥九郎、桃井春蔵が登場するので、知っていました。
最後までお読み頂き有難う御座いました!